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近代日本の運命を変えた男・ジョン万次郎の漂流と偉大な功績

鎖国により欧米に遅れをとっていた徳川支配下の日本を、急速な近代化政策により先進国へと成長させた多くの功労者がいます。

維新の三傑として知られる「大久保利通」「西郷隆盛」「木戸孝允」の3人が有名ですね。

ただ、教科書でおなじみのこれらの人物以外にも、日本の発展に大いに貢献したにもかかわらず、その名前が忘れられようとしている「陰の立役者たち」の存在にも目を向けるべきだと思うのです。

そこで、今回の記事では、そんな立役者の一人であり、貧しい漁師から重要な文化交流の橋渡し役へと転身した「ジョン万次郎」を取り上げます。彼は直接的な政府の指導者ではありませんでしたが、幕末の日本における外国語習得や西洋文化の理解を通じて、日本の近代化に大きく貢献しました。


それでは本編にまいりましょう ⬇️⬇️⬇️



ジョン万次郎は、幕末に漂流してアメリカに渡った人というイメージしか一般にはないようだが、彼は単にそれだけの人ではない。彼がいたおかげで、幕末の日本は幸せなコースをたどることができたのだ。

万次郎は土佐の貧しい漁師の息子であったが、天保12年(1841年)、14歳のとき、カツオ船に乗っていて難破し、無人島の鳥島(とりしま)に漂着したところをアメリカの捕鯨船に助けられる。

さて、ここから万次郎の運命はガラリと変わったのであるが、実は万次郎のようなケ ースは決して珍しくはない。難破して西洋の船に救われた漁師たちは、この他にもたくさん例がある。現に、この時も彼だけが助かったのではなく、同僚たちも一緒に助けられている。

では、万次郎が他の人とどこが違ったかと言えば、それは彼が人一倍の好奇心と理解力を持っていたという点だ。彼は、この補鯨船で積極的にアメリカ人の船員たちの中に入りこみ、彼らの言葉を覚えようとした。また、きわめて目がよかったらしく、自分から進んでマストに登り、鯨を探す手伝いをして、船員たちからも愛されたという。

そして、この様子を見た船長が万次郎を大いに気に入り、自分の養子にならないかと持ちかけることになった。当時のアメリカは、まだ建国して60年余りの若々しい国であったから、肌の色にこだわらない、この船長のような立派な人物もいたのである。

万次郎は大いに喜んでこの申し出を受け、船長の故郷であるニューイングランドで暮らすことになった。ここでも彼は皆から愛され、また大いに学んで、ついにはバートレッ ト・アカデミーという学校に進学して航海士の勉強をする。

アメリカのアカデミーというと日本の専門学校というイメージがあるが、当時はアカデミーも大学と同じくらいの水準で、入学するのにも相当の学力が必要だったようである。 また、航海士というのは、単に操船術だけでなく、高度な天文学や数学も学ばなければならない。

このバートレット・アカデミーを首席で卒業したのち、万次郎は捕鯨船の船員になったのだが、航海中に船長が脳の病気を起こしたときには船員たちから推挙され、副船長兼1等航海士にまでなった。

こうやってみていくだけでも、ジョン万次郎が単に外国で暮らしただけの人物ではないのが、よくお分かりいただけるでしょう。彼は、外国で正式に高等教育を受けた最初の日本人であり、しかもアメリカ社会において、1等航海士という非常に名誉ある地位に就いた最初の日本人でもあった。また、白人の女性と結婚をしたとも言われているから、その点においても日本最初であった。

しかし、これだけの出世をなしとげた万次郎も、やはり生まれ故郷への想いを捨てられず、日本に帰ろうと考えた。故郷には老いた母がいたからである。

そこで、彼は日本に帰る旅費を作るために、カリフォルニアで金鉱掘りをする。この直前の1848年にカリフォルニアではじめて金鉱が発見され、ゴールド・ラッシュが起きていたのである。ゴールド・ラッシュを実際に体験した日本人も、おそらく彼だけではないか.......


そこはまさにアメリカンドリームの聖地…😍





万次郎がようやく日本に戻れたのは、漂流してから10年後の嘉永4年(1851年)のことであった。彼は琉球(沖縄)に上陸する。

 もちろん、当時の日本は鎖国であるから、海外から戻ってきた漂流民は罪人扱いだ。

そこで、彼の身柄を押さえたのは、琉球を支配していた薩摩藩である。

 彼らは最初、万次郎のことをただの漁民として扱っていたが、話しているうちに


《万次郎は語学の天才であったから、ただちに侍(サムライ)言葉が使えるようになった》


相当な学識の持ち主だということに気づいた。この時すでに、日本の近海にはたびたび外国船が来るようにな っていたから、海外の正確な情報が求められていた時期であった。

そこで、琉球支配の薩摩藩の代官が直接、万次郎から事情聴取を行うと、どんな質問にも的確な答えが返ってきたので、その薩摩藩の役人は大いに驚いたという。

当時の薩摩藩の藩主は、開明派として知られる島津斉彬(なりあきら)であった。斉彬は琉球からの報告書を読んで、直接に万次郎から話を聞くことにした。

万次郎に話を聞いた斉彬は大変な感銘を受けたようである。薩摩滞在中の万次郎はまことに丁寧な扱いを受けたという。また、漂流民の取調べをする幕府の長崎奉行に対しても、 斉彬は「この男は怪しいものではない」、つまりキリシタンではないという一種の保証書までも送っている。

長崎奉行で取調べを受けた万次郎は無事、土佐に帰ることを許される。土佐藩は彼を武士の身分に取り立て、また藩主の山内容堂(ようどう)は重臣 吉田東洋に命じて、彼の話を報告書にまとめさせて大いに参考にしたという。

一介の漁民であっても、重要な知識を持っていれば武士に取り立てられ、それどころか、大名と直接面会できたということだけを見ても、幕末の江戸時代というのは、単なる封建体制ではなかったということが分かるが、万次郎の活躍はこれだけでは終わらなかった。

というのも、万次郎が帰国した翌々年(嘉永6年=1853年)に浦賀にペリーが現れたからだ。時の老中首座(今の総理大臣のポスト)阿部正弘は、この事態に対応するため、さっそく土佐の万次郎を江戸に呼んだ。

万次郎は幕府首脳の会議において、アメリカ事情について説明する。もちろん、幕府も長崎のオランダ商館を通じて海外のことをある程度は知っていたのだが、万次郎の話はそれを裏づけるばかりか、ペリー提督自身の履歴まで詳しく知っていたから、皆たいそう驚いたそうな…😱🙇‍♀️

中でも重要だったのは、「アメリカには侵略の意図はなく、捕鯨船に対する補給を要求しているにすぎない」ということを指摘したことであった。何といっても、彼自身が捕鯨船の乗組員であったから、この情報には重みがある。

幕府がペリー艦隊をむやみに討ち払わなかったのには、万次郎の功績まことに大であったと言えるだろう。万次郎がもし幕末の日本に戻らず、アメリカに残っていたとしたら、 明治維新の流れが大きく変わっていた可能性は大きい。


ちなみに、この後も万次郎は恵まれた人生を送っている。韮山(にらやま)代官 江川太郎左衛門のもとで幕府の近代化を手伝い、軍艦操練所 (江戸築地に設けられた洋式軍艦の操縦訓練所) の教授にもなった。

そして、維新後も開成学校(のちの東京大学)で英語教授として働き、明治31年=1898年(満71歳)まで生きたし、その子孫も立派な学者になっている。



世界の潮流により、大変革を強いられた江戸末期の日本に彼のような人物が現れたことは、実に日本にとって幸運でした。十数年ぶりにジョン万次郎の伝記を読んでしみじみと……ジーン( ߹꒳​߹ )♡︎


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