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評価する側とされる側

4月になってはや1週間。
新しい職場で新しい仕事に取り組まれている方も多いはず。
みなさまお疲れさまです。

思えば3年前の4月1日、私は今の職場に転職した。
何度かnoteにも書いたけれど、どうしても正社員になりたくて、居心地のよかったパート先を辞めて移ったのだった。
最初は力が入っていたと思う。ここで頑張らなくては!と。
でも、3年も経てば会社の力量もわかってきて、私がどのタイミングでどのくらいの力を出せばいいのかも掴めてくる。
何と言っても、私には帰宅後2匹の犬の散歩という大仕事があるわけで、会社で余計な力を使うわけにはいかないのだ。

と、まあ私の話はどうでも良くて。
最近職場で耳にした会話がどうも心に引っかかっている、という話をしたい。

それは、隣の部署で作業していた時に聞こえてきた会話。
「◯◯君は使える」
「◯◯さんは思ったより使えない」
いい大人が集って新入社員の話をしていた。

たった数日でこの人たちに彼らの何が分かるのかと、正直呆れてしまった。そう、私の会社にはそういう噂話がとにかく多い。

噂話をしている人達は自分が「評価する」側だと思っているけれど、実はその評価している相手こそが自分自身の投影、つまり鏡に映る自分だということに気づいていない。
彼らは「評価されること」をとても恐れている。だから先に他人を評価することでなんとか自分を守ろうとしているのだろう。

社長や上司の顔色ばかりを伺っていると、「よい評価をもらうこと」が自分の仕事になってしまう。こんな環境ではクリエイティブなものはなかなか生まれない。指示されたことだけを間違えないようにする、そういう仕事。なんだかつまんない。
先に書いた「会社の力量」って、そういうところ。

とはいえ、私もまだまだ「評価されること」を恐れているのだと思う。
だからこそ、あの会話が心の中で魚の小骨のようにつっかえていたし、嫌な気持ちにもなったりしたんだ。

心を平穏に保ち、ニュートラルに生きる。
どちらにも引っ張られないように。
「評価する」「評価される」その両方をただ眺めてみる。
そして、正しい、正しくないという二元論で判断しないこと。

うーん、まだまだ難しいな。
「嫌だな」と感じている時点で私は少し引っ張られている。
中庸という感覚がつかめてきたとき、私はこの会社を離れるのかもしれないなと、今はぼんやりと考えてみる。

「評価する」という行為は、日常の生活、とくに家族の中でも起こりがち。
会社より人の距離が近い分、自分でも気づかないことが多い。
そして、パートナーや子供たちへの評価ってなぜかとても厳しい。
それは「自分にとって都合のいい評価」ってだけなのかもしれない。私も気を付けよう。


岡山県倉敷市の端っこで小さなヨーガ教室を始めました。
犬たちはあまり見守ってはくれません。
少し吠えたり、静かに眠ったり。
そんなゆるゆるな教室です。


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