無題

小学2年生のとき、私にはなんの理由もわからなかったけど、いじめが始まりました。
私が仲良くしている友達を奪うようにして、私のことを独りぼっちにしました。

学校で独りぼっちのときに一緒に過ごしてくれるのは優しい女の子たちでした。その子たちも、家で虐げられていたり、友達がいなかったり、同じように独りぼっちでした。
小学校高学年にあがるころには、男の子の友達も増えました。でもいじめはずっと止みませんでした。毎朝学習机が糊で汚れていました。

糊を掃除してくれたのは、その男の子でした。なんて優しいんだろうと感動していると、クラスのなかで大事になって先生が学級会を開きました。
自分が注目されていると思うと恥ずかしさで居た堪れませんでした。もう私のことを見ないで、誰にも迷惑かけないから。そう思っていたのを覚えています。

男の子は学級会の後に私をトイレに連れて行って暴力を振るいました。背中に傷ができてとても痛かったけど、それ以上に心を許した友達に暴力を振るわれたことがショックでした。その子は「黙ってろよ」と脅していました。何を黙っていたらいいのかな、暴力のこと?と思いましたが、糊を学習机にまいたことを黙っていろ、という意味でした。

廊下で突然暴力を振るわれたり、竹刀で殴られたり、登校したら椅子がなかったり、6年生にはいろんなことが起こりました。仲良くしてくれたのは女の子だけでした。
私をいじめるのは、幼稚園から一緒だった子、小学生から一緒になった子、いろいろでした。でもなによりショックだったのは、幼児のころから一緒に育った子が暴力を向けてくることでした。両親の顔も知っていて、「この子と仲良くしてあげてね」と言われたこともありました。たくさんの汗をかきながら「は、はい」と答えました。この子は、幼稚園のころから変わらずいい子です。私にいじめをすること以外は。

中学生に上がるころには、女装を始めました。性同一性障害で、髪も伸ばしていました。入学直後から、上ぐつがなくなることは日常でした。廊下で暴力も止みませんでした。トイレの前を通りかかると、知らない人に女子トイレに押されて床に押し付けられたこともありました。「お前はこっちやろ」と言っていました。私もこっちがいいと思っていました。でもまだ女装少年なので、男子トイレしか使えないのでした。

小学生のころもちらほら休みがちでしたが、中学生1年生からは不登校になりました。いじめていた人が家までやってきたこともありました。家の中で私がパニックになっていたら父に叱られました。

ほどなくして私は血管の病気になり、ほんとに学校に行けなくなりました。母は看病してくれましたが、父は「いつになったら学校行くねん」と私を責めました。私もいつ行けるかわかりません。なのにそんなこと言われても困ってしまいます。その夜はベッドで泣きました。

中学校にはときどき行きました。出席した方がいいと言われたので行きました。行ったら、小学校時代に仲良くしていた女の子がまた話しかけてくれて、ちょっとワルそうな顔をして「元気?」と言っていました。その後、その子はリスカの痕をいっぱい見せてくれました。「ラクなんねん」って言ってたと思います。私には「痛いだけやん」と思えましたが、ほどなくして私も自傷することになりました。私はシャーペンとガラス。死ねませんでしが、死ぬ気もそんなにありませんでした。ただ、この苦しみから一刻も早く脱出したい一心でした。
リスカをした女の子の友達のことを気遣う余裕など、私にはありませんでした。

中学校に上がってから仲良くなった女の子がもう2人いました。それから男の子も。
2人の女の子は、私の性別を見破ってか、自分たちの服を貸してくれました。その服を着て夜中に出歩いたこともありました。とても楽しかった。生きている感じがしました。
この2人の消息はわからなくなりました。高校生のころに一度だけばったり会いましたが、反社の人たちとつるんでいたので近寄れませんでした。
男の子は今でも仲良しです。とある場所で女形としてお仕事をされています。彼も私のことを掛け値なしに認めてくれた人でした。

中学校にはついぞまともに登校することはありませんでした。でも高校には行かないと生きていけないと思ったので、塾で猛勉強してなんとか進学しました。小学生のころからやり直しだったのでとても大変でした。
このころの母の口癖は「何もかも捨てて1人でどこかに行きたい」「仕事から帰ってこずにどこかに行こうかなぁ」でした。私が大迷惑をかけていることは一目瞭然でした。家族には捨てられても仕方ないと思いつつ、私は捨てられちゃったらどうやって生きていったらいいかわかりませんでした。

高校には進学できましたが、入学直後からやっぱり暴力を振るわれて不登校になりました。理由はわかりません。女っぽいというだけだったかもと覚えています。でもそれだけで暴力するのかなぁ。
それでもときどき学校に行っては部活なんかもがんばってみましたが、今度は持ち前の運動神経で僻まれて暴力を振るわれました。対人関係もまともにつくってこれなかったから、たぶん私が気に障ることを言ったんです。私がわるいんです。

高校2年生からは単位制高校に編入しました。人との関係は何も生まれない。ほとんど全生徒が独りぼっち。耐えがたくなったいくつかの生徒が群れていました。私はもう対人関係に疲れきっていましたので、ずっと独りぼっちで過ごしました。

これまでにも恋人は何人かいましたが、この高校でできた恋人がとても大変でした。女っぽい私のことを好きになったのに、女っぽい私を否定し続けていました。久しぶりにショートヘアになりました。

このころの母の抑うつはピークでした。抑うつという言葉を今はあててあげられます。でも当時の私にはなんの知識もありませんでした。「あんたを産むつもりなんてなかった」と言われました。とても悲しいはずなのに、ゴムでも噛んだように、言葉の意味がまったくわかりませんでした。

なんと大学にも行きました。これも焦燥感があって進学したので、ほんとに私の人生に必要だったかどうかはよく考えませんでした。家にお金はあったんだと思います。クズに使うほどの。
卒業後に大学院に行きました。今度は自分のお金で。それから手術もしました。体を女性に変えました。名前も変えました。家族に黙ってやったので絶縁になりました。

父には「お前のやったことはお前で責任を取れ。家族を巻き込むな。全部黙っていろ」と言われました。
母には「私が十月十日(とつきとおか)かけて作り上げた私の体に、私の許可なく傷をつけられて、自分を否定された。許せない」「親族の集まりにも来るな」と言われました。
2人の子どものはずなのに、私はもうどうでもよくて、人形のように扱われてしまいました。大事に扱われたことなんてあったのかなあ。

手術をしたからといって、完全に女になった、ハッピー!ってわけではなかったです。生まれは男という超マイナススタートのラインに立っただけで、口が裂けても「私は女です」って言えません。女の人にとても失礼です。生理も経験してない。女の人が経験してきたような差別も経験してない。おこがましいですよね。

私は、社会人になった今でも、他人からは疎まれ蔑まれ雑に扱われてもよくて、家族からはどうでもいい存在で捨てたくなるような厄介者、という自己意識を固く持ってます。
この間、勤め先の食堂でご飯を頼んだら、「りゅうちぇると同じじゃない?」とヒソヒソと話し声が聞こえてきました。声が男性のままなのでしゃべりたくないのに、りゅうちぇるのせいで私たちみたいな人が悪目立ちするようになっちゃいました。りゅうちぇる、なんで死んじゃったんですか。
誰にも迷惑かけたくないので、おねがいだからそっとしておいてください。そっと死にますので。

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