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憧れのおばあちゃんのように

父は三男で、母は末っ子。
両親はともに地元を離れて暮らしていたから、私にとって「おじいちゃんおばあちゃん」は年に数回会うだけの遠い存在だった。

それにひどく車酔いする子供だったから、片道2時間の祖父母の家に行くこととグロッキーになることが結びついていて、年に数回のそれは、気が重くなる最悪のイベントだった。

そんな環境だったから、私は大学生になるまでまともにお年寄りと会話をしたことがなかった。大学生になってから「制作の時間が惜しいからバイトはしたくないけど制作したいからお金が必要」のジレンマに陥って、人伝てに教えてもらった不定期のバイトを色々やった。その一つが、世田谷にある小さなギャラリーの受付のバイトだった。

小さなギャラリーのパイプ椅子で

一日中、ひたすらギャラリーの入り口に座って、来るお客さんの人数を数えたり、物販の案内をしたりする。平日の昼間はそんなに人も多くなく、大抵は暇だった。休憩がとれるようにペアでシフトが組まれていたけれど、当日になるまでペアの相手は分からない。大学生もいれば主婦もいたし、そして「沢田さん」というおばあちゃんもいた。

ギャラリーのパイプ椅子に座って、沢田さんとは色々な話をした。
その日に「お疲れ様でした」と別れれば、次はいつシフトがかぶるかも分からない。お互いに普段はどこでどんな生活をしているのか知らないし、このバイト以外で会うことはきっとない。だからこそなんでも話せたし、沢田さんはなんでも聞いてくれた。

沢田さんは小柄で穏やかで、言葉少なにゆっくりと話すおばあちゃんだった。早口な私の言葉を、「そう」「へえ」「うん」と、柔らかい相槌で聞いてくれる。その短い一声には妙な色気があって、私はそれが好きだった。

「人生は柔軟に考えることよ」

大学を卒業して、東京を離れ長崎に行くかどうか迷っていたとき、会う人会う人、色々な人に相談をした。「どう思いますか?」と。相談しても相談しても、賛成も反対も、誰の意見も正しいもので、本当に長崎に行きたいのかも分からなくなるし、迷いは大きくなるばかりだった。

そんな時期、たまたま沢田さんとシフトがかぶって、同じように自分の迷いを話したら、沢田さんはただ一言「やりたいと思ったことはやらなきゃだめよ」と。いつも通りの柔らかい口調で、でもはっきりと答えた。その一言で「あ、私は長崎に行きたくて、行きたいんだから行こう」と、すべての迷いが一つにまとまった。本当にシンプルに。

色々な人に相談する中で、似たように背中を押してくれた人もいて、その全てに感謝しているけれど、沢田さんの言葉は妙に力強く印象に残っている。

それから長崎への就活を経て数ヶ月後、久々にシフトに入ったら沢田さんがいた。「長崎の会社に就職が決まりました」と報告をしたら、「良い選択になるといいわね」と。沢田さんは「頑張って」とは言わなかった。

沢田さんの穏やかな表情を見ながら、良い選択になるかそうでないかは、全て自分次第なんだと思った。

「人生は柔軟に考えることよ」
「行ってみてダメだと思ったらすぐに帰ってきたらいいんだから」

今のところ、まだダメだと思ったことはない。

いつか、憧れのおばあちゃんのように

沢田さんは元気そうに見えたけど、病院に検査結果を聞きに行かなければいけない、と不安そうに話していた。沢田さんは今どうしているだろう。

沢田さんと会って話したのは、多分、たったの5回くらい。だけど私にとって憧れのおばあちゃんで、あんな風に年を取りたい。沢田さんのように。

#移住 #田舎 #iターン #世田谷 #憧れ #おばあちゃん

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