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ふいに得た2ヶ月間の夏休み

6月に仕事を辞めました。仕事を辞めてもうすぐ2ヶ月が経ちます。この2ヶ月間は働かず、進路についても考えず、もちろん課題もなく、人生で最も何もない期間でした。ふいに得た夏休み期間、以前の私ならアチコチへと旅行に出掛けていたと思いますが、このコロナ禍では晴れ晴れとした気持ちで飛行機に乗ることもできず、(退職金を使い切る勇気も無く。)もともと家に居るのが苦ではない性なので、屋根のもとで過ごしていました。

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前職については、見知らぬ土地でやりがいのある仕事と温かい方々に恵まれたことが本当に幸運だったと感じます。辞める直前は、まるで教育実習を終えた大学生のように感極まり、社員お一人ずつに手紙をしたためようかとも考えましたが、さすがに重すぎるのでやめました。

会社を辞めて意外だったのは「社会との繋がりが広がった感覚」を得たことです。会社に所属していた方が確実に社会に貢献しているものの、何にも所属しない状態の方が世の中を身近に感じました。世の出来事が自分にも起こり得ることとして捉えられ、不安感の共有ができたからかもしれません。この感覚は以前にも味わったことがある…そういえば大学生も「人生の夏休み」と揶揄されることを思い出しました。

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以前、古本屋でアルバイトしていた友人が貸してくれた本に「モラトリアム人間の時代/著 小此木啓吾」というものがあります。あえて引用はしませんが(大変なので)、昭和56年に書かれた内容が現代にも通ずることに衝撃を受けました。むしろ、著者の主張はより濃く現代の側面として現れているようにも思います。本の内容は、ざっくりとまとめると以下のようなものです。

モラトリアムとは、社会に出る前に与えられる猶予期間のこと。青年時代によく言われるが、現代においては青年時代を過ぎてもこのモラトリアムを脱せない人間が増えている。つまり、社会の一員である立場に置かれても、社会の出来事をどこか俯瞰的に見ており、自己と社会を切り離している。組織に所属する自分自身は「本当の自分ではない」と捉え、人生をかけて一つの物事を達成しようという当事者意識が低い。現代にはそのような社会的性格がある。

記憶に頼ったかなりの意訳なので間違いがあるかもしれませんが、私はこう解釈しました。まさに自分のことを言われているようで、関心が募る一方で居心地の悪さも覚えました。学生時代は「今のモラトリアムを活用しなければ」と躍起になって社会と繋がろうとし、いざ卒業と同時に意思とは関わらず社会に出てみれば、大学生のそれに一種の憧れを抱く。社会に出たことを一つの諦めと捉え、職場にいる自らを本当の自分とは認めない。自己の分離を積極的に行っている自分と重ね合わせました。

しかし決して悪いことばかりではないと本には書かれています。なぜなら戦時中などの世の中の混乱期には、大人によって子供時代のモラトリアムさえ奪われてしまうからです。子供たちは考える暇などなく国や社会の一員として叩き上げられます。つまりモラトリアムから抜け出すことの難しい現代はそれほど豊かになっているということです。

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話は変わりますが、私には高校生の頃から抱き続けている夢があります。それは「ラマを飼う」こと。アルパカにも似た、コブのないラクダ。動物園では柵に「唾を吐くことがあるので注意!」と書かれているあのラマです。理由はただ好きだからですが、大人しく人懐こい性格(らしい)ので意外と現実的だと思うのです。まずインスタでアルパカを飼っている人にメッセージを送り、ペルーかオーストラリアに会いに行き、入手ルートや飼い方の注意点を聞いて(この際飼うのはアルパカでもいい)…その先は想像できないし実際に飼うには土地や金銭面の問題もありますが、夢に近付くための行動は今すぐにできます。行動することで具体的な目標設定が生まれるはずです。でもそれをしない。それは夢を夢のまま抱いている心地よさの中にいたいからです。

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モラトリアムはあくまで準備期間です。それを過ぎれば夢は叶えなければならない。結果的に叶わなかったり目標の姿が変わることもあるでしょうが、叶えるための過程は必要です。その現実に向かう障壁を前に尻込みするのです。簡単にアクセスできる情報だけをかき集めて準備した気になり、自分自身はずっとモラトリアムの中にいたいと願う。

自分自身のモラトリアム人間である一面を自覚すると同時に、ここ最近、とくに2011年の震災以降は、モラトリアムを脱している人(もしくは、脱そうと努めている人)も少なくないことに気づきます。積極的に社会へ参画し、その行動に強い意思と責任感を持つ人が増えています。それはつまり世の中が安定しているとは言い難くなり、変動期に来ていることを現しているのだと思います。

先述した、子供時代のモラトリアムを奪われた人々のことを本の中では「モラトリアムなし人間」と書かれ、モラトリアム人間とモラトリアムなし人間は互いを理解し合えず衝突するのが常であると書かれていました。私の場合は、モラトリアムを長く経験したからこそ他者に共感できることも多くあると思います。人生を楽しむためにモラトリアムはあった方がいい。しかし世の中が変わっている今、抜け出すことが大事なのだと思います。

私の憧れる人はいつも目の前の一つのことに向き合い、全力で成し遂げています。これまで漠然と「かっこいい人だな」と思っていましたが、その理由が分かった気がしました。彼女は自分の人生に責任を持っているのです。私がモラトリアムを脱するのに必要なのはきっとこれです。器用貧乏にことをこなすのではなく、目の前の一つのことに向き合う。

来週から新しい仕事が始まるので、まずはそこから始めていきます。


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