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栄養情報学についてのメモ

●栄養学が扱う全ての情報について、その伝わり方を研究し、より良い伝達方法を見つけ出すのが栄養情報学の目的である。

●多くの人が健康になる食事法や身体に悪い食べ物を知りたがっている。とりわけ、食べるべき食品や食べるべきでない食品を。TVでは健康番組で普通にそのような(「べき」とか「べきでない」とか)勧め方をする。でも本来、科学研究の結果は、食べるべきかどうかについてはなにも語ってくれない。ある食品を食べた結果どのようなことが起きたかがわかるだけである。その結果をみて、食べるべきかどうかを判断するのは、各個人であり、そこには研究者自身も含まれるが、決して研究結果が語っているわけではない。科学研究の結果だけではない、本来「科学的根拠に基づく栄養学」というのは、そのような「べき」「べきでない」までを含めた栄養情報を全体を扱うものだと思う。根拠に基づく医療が「医療」行為の全体を扱っているような意味合いにおいて。けれども、現実には、それらは基づくべき根拠の部分に重点が置かれていて、それに基づいてする実践の部分、すなわちするべきなのかそうでないのかをハッキリさせなければならない部分については、かならずしも多くを語ってくれないようにみえる。そのような曖昧さは、科学研究を実践するときには必然的についてまわるものだが、そのために、実践の力強さがそがれてしまえば、有効性もそれなりのものになってしまうのは当然の帰結といえる。栄養情報学は、そのような実践の部分を含めた、さらにいうなら実践における科学的根拠の困難性をその克服法について考察し、より効果的な栄養指導・栄養教育につなげていくための方法を開発しようとするものである。

●栄養情報学が重要なのは、栄養情報を栄養指導の一部として伝えるときにも、事実の伝達だけでなく、それになんらかの価値判断が含まれるのが普通だからである。なぜなら、栄養指導とは、簡単に言えば、身体に「良い」こと(食事や運動)を実行させる(もしくは「悪い」ことを止めさせる)ものだからである。もしかしたら相手は同じ価値観を共有していないかもしれないので、事実の伝達は完ぺきに正確であっても目的は達せられないかもしれないのである。

●特に問題なのは、話者自身が、そのことを意識していない場合である。話者が(研究者個人が間接的にでなく)研究結果が判断を直接導いていると思い込んでいる場合、話者は自分はただ事実を相手に伝えているだけだと思っているかもしれない。つまり、ある研究結果が、「ある食品を食べるべきである」という事実を発見したと思い込んで、そのように話しているのかもしれない。相手の方が、それが個人的な判断であることを理解している場合には、それを指摘されて話は終わってしまうだろう。

●客観的な世界が存在し、人はそれを客観的に(同じものとして)認識できる、といういわゆる素朴なリアリズムは、事実関係を正しく理解すれば必ず自分と同じ結論になるという思い込みに陥りやすい。そのため、素朴なリアリズムの信奉者は、科学研究からあることを「すべき」であると、自分が(正しく理解した結果を個人的に価値判断して)結論づけたことをもって、そのような「方法論」があるというかもしれないが、結論を出すのは個人の価値判断に依存するので同じになるかどうかは分からない。

●人間はまた、個別の情報だけでなく、健康になる食事法や身体に悪い食べ物をより良く知るための「方法論」を知りたがっている。とりわけ、それに従えば健康になれる「方法論」を。たとえば、「科学的根拠に基づく」というのはそのような方法論うちの最も重要なもののひとつであろう。でも、方法論は方法論に過ぎず、決して「方法論」そのものがなにをすべきかを完全に教えてくれるわけではないし、どの「方法論」が最も良い「方法論」かを判定する「方法論」は存在しない。

●同様に、栄養指導・栄養教育においても、従うべき「方法論」が存在すれば便利であり、それが科学研究の結果から直接演繹されてくるのであれば、それに勝るものはないだろう。でも、実際にはそのようなものは存在しない。

●栄養学というのは栄養文化とでもいうべきひとつの文化圏を形成している。それは食文化や医療文化の部分集合になっているだろう。食文化や医療文化にはたとえば、薬膳を含む漢方文化といったものもあるかもしれない。文化圏も方法論と同じで、違いを科学的に論ずることはいくらでも可能だが、どれが最も優れているかは教えてくれない。栄養文化のほうが漢方文化よりも上位にあるとか、優れているといった判断は、最終的には各個人のレベルで行われるしかない。もちろん個人レベルでの判断は相互に比較することができる。文化についての比較ではなく、優劣をつけた個人の価値判断の比較は可能である。

●個人レベルの判断は主観的なものだからどんな判断でもできるが、それは他者とのすり合わせを経て変化する(これを間主観的判断と呼んで良いのかどうかは、筆者の知識が不足しており不明である)。この場合の他者には、書籍なども含まれる。客観的であれと言うことはできない相談だが、合理的判断であることは求められる(あるいは間主観的であれ、ということが可能なのだろうか)。

●科学研究者の中には、ここに書いたようなことの全てが間違いだと決めつける者がいるかもしれない。全ての事象の最上位にあるのが科学なのだと信じていれば、そういうことになるだろう。全ての事象の最上位にあるのだから、科学に基づく価値判断がここでは有効であるということならば、それでも構わない、というかそれしかない、ということになる。ただ筆者には、そういう前提で納得のいく結論が出せなかったということに過ぎない。というのは繰り返しになるが、科学は全ての事象の最上位にあるわけではないし、科学に基づく価値判断はあったとしても限られたものだからである。

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