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5 アダルトチャイルド、その窓を覗く―私は私が傷ついたと認めていい

 

…というわけなのよ~。いやいや全然。大変だったなんて思ったことはないし。悩みなさそうって言われるし、全然。面白体験したって感じ。もっと大変な人たくさんいるもの。

 私は割と自分のことを人に話すけど、だいたいの人にはこんな風に答えてきた。15年前、留学していた時にロシア人のハウスメイトに言われたことがある。「あなたはいつもハッピーで笑顔が素敵だけど、こんな時くらいハッピーにしなくてもいい」でも私はハッピーにすること以外の方法を知らなかった。大変な時がいくつもあったはずだけど、「ピンチの時こそ楽しもう」と思ってきた。でも、笑ってごまかして向き合わなかった。精神がやばいときは運動した。運動の辛さや爽快さでごまかしてきたかもしれない。それを教えてくれたのは、ウェブ上の自助グループやまだあったことのないネットの友達との会話だった。独白や独白を聞くことは私に気づきをもたらしてくれた。

 父も母も、姉もたくさん傷ついてきた。でも私も傷ついてきた。私が傷ついたことを認めることを許そう。それは父や母や姉を否定することではない。愛は愛で、傷は傷で、私を育ててきた。そうだよ。うちは機能不全家族だったよ。アルコール依存症と共依存があった。姉に対する過干渉もあった。そして一番下の私は私で傷つけられてきたし、いらぬ気もつかった。父の妄想のあの家は思春期の私が安心して住めるような家じゃなかった。20代の若くて元気で行動力もあったあの大事な時期に姉と母の間に立たされた私は大きな事故に巻き込まれたようなものだったよ。母を最も必要とする時期にも、母は姉ばかり見ていたから、勝手に大人にならざるを得なかった。私に生理を教えた家族はいなかった。父のために息子のようにふるまったこともあった。母の介護が必要になったときに姉が鬱だったこともあって、私は「私が長男だから」と言って家族を牽引した。母が私に依存するのも嫌だった。そして、最も大変な時期に、姉は結婚して毒親切りを行った。その争いに巻き込まれた。そのあとは私と母を一塊にして拒否してきた。必要な時に与えられず、大変になってから押し付けられた。SOSを無視された。遺産相続で暴言を吐かれた。介護ばかりしてきたから少しばかり旅行に行きたいので母の骨を預かってほしいという小さな願いも断られた。結婚式の相談の電話を切られた。

 私は笑っていたかもしれない。こういう人だからって納得していた。葬儀の時も自分が次女なのに喪主をやることにたくさん理由付けをして姉を立てていた。姉はティンカーベルのような人だから感情が一つしか入らないんだと、視界に入る人しか相手にできないだけだとみんなに説明してきた。そんなことはもうやめて、傷ついたことを認めていい。家族の誰よりオトナになることをやめ、私は私の傷を無視しない。それは家族を否定することでもなければ、姉を否定することではない。「私」が「傷ついた」という事実を受け入れる。

 2020年3月11日になってやっと、私は震災の傷も認めることができそうだ。私は津波被害もなかったのに1人傷ついていた。これに気が付かなかったばっかりに後で大きなしっぺ返しを食らった。眠れなかった、走っても走っても。命の電話が繋がらなかった。「…私は被災してないから傷ついてないのに」

どうして傷つくことに誰かとの比較や許可が必要になってしまうんだろう。家族それぞれの事情があったって、私が傷つかなかったことにしていい理由にはならない。

だから今回は私は私に傷ついたと認めることを許す。




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