書評#1 「月山」(森敦)──私小説的冥界譚という試み

ちょっとくれえ生きてる証拠を見せておかないとほんとうになにもせず死んでいくのではないかと思われていそうなので、2022年はすこしはnoteの更新をしていこうと思っている。ほんとうは年明けすぐに所信表明的なこともしようと思っていたのに気づいたら1月が終わりそうで唖然としている。開いた口が塞がらないまま1月が終わっては事なので、大急ぎで口を閉じて書き始めている。

社会問題とかには実作に落とし込んで首突っ込むのがワナビの流儀だと思っているので(自意識に絡めとられるくらいなら捨てたほうがいいよ)、書評とか映画時評みたいなことを中心にしたい。filmarksは別にやってはいるんだけど見たその場で書き殴っているだけだし、読書メーターはなんかツイッター連携がうまく行かなくてめんどくなったし、noteアカウントの漬物をいつまでも発酵させておくのもなんなので、ここで外向きに整理する機会をつくろうというもの。まあ、アカデミックな訓練経験や知識はないので、"評"といっても、作品単体をぼく自身がどう受けとったか、の域を出ることはないだろう。文学オタクくんのマウント大歓迎です。

前置きは以上。

記念すべき第1回は「月山」(森敦)を取り扱う。

理由はたまたまたったいま読み終わったからで深いことはなにもないのだけど、いちおう、あまりレビューに書いている人がいないっぽいことを考えたので、書く価値があるかもしれないとは思っている。いや、実はみんな気づいているけどわざわざ言ってないだけ、ぼくが知らないだけだったらどうしよう。最近そんなことばっかり。

(何種類かあるなかでぼくが読んだのは上記リンクのもの。Kindle版があったらそのほうが楽なので。「鳥海山」との合本だが、これはまだ読んでないので悪しからず)

以下、ようやく本題。
※結末部分への言及を含みます。ネタバレを好まないかたはお気をつけください。純文学にネタバレもクソもあるのかよう知らんけども。

リアリズムと死生観の交点で

なるほど墨絵のような、淡々としながら迫力を感じる描写である。それは「雪深い山寺で一冬を越す」という行為、その目に映るもの自体が墨絵的であることに起因するかもしれず、ある意味では必然だった、とも言える。しかし「そうであることを、そのように書く」というのがどれほど困難なことか、実作者ならお分かりいただけるはずである。

吹き(吹雪)の描写や「臥した牛の背のような月山」など、一言一句変わりない、まったく同じ表現が繰り返される点は、個人的には好みではない。しかし意図してやっているのかもしれない。吹き(吹雪)が繰り返し訪れ、毎日毎日同じように耐える日を繰り返す、寺での暮らしを思えば。

(当時最高齢とか"受賞作史上最高傑作"とかいろんな付随情報はついて回るが)芥川賞が重きを置く「私小説的リアリズム」というのはなるほどこういうことかと、無学なぼくなんかは思う。しかしこの作品の方が出色なのは、その現実的な感性がもたらした幻想性──マジックリアリズムのようでもあり、またすこし異なるような──にある。いや、それっぽく言ったけど、マジックリアリズムをよくわかってない。普通にマジックリアリズムなのかもしれない。

わかんないから、引用を見てほしい。

月山は月山と呼ばれるゆえんを知ろうとする者にはその本然の姿を見せず、本然の姿を見ようとする者には月山と呼ばれるゆえんを語ろうとしないのです。月山が、古来、死者の行くあの世の山とされていたのも、死こそはわたしたちにとってまさにあるべき唯一のものでありながら、そのいかなるものかを覗わせようとせず、ひとたび覗えば語ることを許さぬ、死のたくらみめいたものを感じさせるためかもしれません。

冒頭に近い部分。月山が霊峰であることを実感から明らかにする、巧みな描写である。著者本人、ないし彼をほとんどそのまま投影していると思われる視点人物の「私」のまなざしは、つねに「死」に向けられている。放浪を経験し60歳を過ぎて書き上げた本作において、森敦の死生観は最も色濃く現れているテーマと言ってよい(これ自体は真新しい指摘ではない)。

寺で寝泊まりするようになり、次第に周辺の人々とも交流を深めていく「私」はある日、寺の境内で催された酒宴に参加。すると、寺に来て間もなく散歩中に出会った、若い女と再会した。

「ここでまた会うとは、思いませんでしたよ」
「おらももう、この世の者でねえさけの」
「この世の者でない……」 
 わたしは耳を疑いながらそう呟くと、聞こえるはずもなさそうな首振りのばさまの向こうのじさまが、
「ンだ。まず、この念仏だば、この世の者でせえねえば、だれもが招ばれて来んなだて。もともとばさまの集まりで、じさまがいてもばさまは来るんども、ばさまが過ぎれ(死ね)ばじさまも来る。だだが過ぎればががも来るってあんべえでのう。だども、あねちゃをこのまま終わらすのはおしいもんだ」 
 そして、これもじさまの性なのでしょう、だれにともなくひとり頷くのです。そういえば、ばさまたちの間のところどころにそんなじさまが目につくものの、まだまだ若さの残っているこんな女は見あたりません。

この女が曲者で、「私」に対して据え膳的な態度を取るのである。思わせぶりなことを言ってみたり、ひとり酒宴を離れ、「私」の寝泊まりする蚊帳に寝てみたり……。
美人局を疑いながらも、しかし他に行くところもなく、失うものもない「私」である。この女の挑発に乗るべきか悶々とするさまは、本作の中盤でかなりの分量をとって描かれている。

わたしは幾つにも折って栓にした芋茎を抜き、狸徳利を傾けひとり茶碗酒をあおって、はじめて女と山で出会ったことを想ったりしていると、その出会いがすでにこの世のものならず思えて来るばかりでありません。ついいまの先までここにいたのは、雪からセロファン菊を背負って来た女というよりも、セロファン菊が女の姿になって来たので、いまもこうしてここにありながら、いつかセロファン菊にかえって、戻らぬものになってしまったような気がするのです。

ところで月山といえば(正確には湯殿山のようだが)即身仏が有名である。ぼく自身、即身仏を見に某寺を訪れたことがあるのだが、そこの住職は「ミイラ」と呼ばれることを嫌っていた。製法が全然ちがうのだ。
しかし本作中では何度か「ミイラ」に言及される。酒宴での若い女とのやりとりと並行し、ある事実が告げられる。ここのミイラは、行き倒れた乞食を燻して作り、祀りあげただけだ。おまえももし寺にたどり着けずに行き倒れていたら、そうなっていたかもしれない──、そんな話を聞かされる。死が「私」にグッと近づいた瞬間である。

▼参考記事

返す返すではあるが、月山は山岳信仰の根付いた霊峰であり、即身仏(ミイラ)の伝承が根付いている。厳しい吹雪が命を奪うこともある、厳しい土地である。そもそも寺とは死者をおくる場であり、そんなところで「私」は、祈祷簿の和紙で蚊帳を作って寝泊まりしている。相当な肝っ玉である。
そんな場所で、この女が取った行動にどんな意味があるのか。
ぼくが思うに、これは私小説的リアリズムをベースにした黄泉竈食《ヨモツヘグイ》である。

黄泉竈食──黄泉の国の食事を摂ってしまったイザナミはイザナギの力をもってしても現界に戻ることはできず、冥府に連れ去られたペルセポネーは柘榴の実を食べてしまい、一年の三分の一をハデスの夫として過ごさねばならなくなった。
「私」が月山と寺を限りなく彼岸に近いものとみなしていることは、さまざまな情景描写を証拠として疑いようがない。しかし本作は著者の実体験に基づいた、至極実直な純文学であるから、文字通りの黄泉竈食を描くことはできないのである。食わなきゃ死ぬから。

わたしはときにこの山ふところを幻のように心に描き、そうしたところも知りたいと思って来たのです。それもウソではないが、こうしてここにいてみれば、わたしはいよいよこの世から忘れられ、どこに行きようもなく、ここに来たような気がせずにはいられなくなって来たのです。それに、寺にはなんとか冬が越せるほどの薪もあれば米もある。寺のじさまの味噌汁で辛抱すれば、すくなくともなんとかこの冬は越せる。(中略)いや、ここは死者の来るべきところであり、げんにわたしはそこに来ているのに、なまじい乗ればまだ戻れそうなバスがあるばかりに、捨て切れずにいた未練を捨てたかったのかもしれません。

そこで著者が選んだのが、冥婚と黄泉竈食の融合である。本作は純日本的な物語ではあるが、つまり先の例で言えばペルセポネーに近い。したがって、ここでようやく本記事のタイトルを回収するに至る──本作は言うなれば、「私小説的冥界譚」なのである。

しかし、わたしはもうどこといって、行くあてのある身ではない。思い切り女を孕ませて、このままここに居付いてしまってもいいのである。方丈が新仏の家をまわり、若後家のさびしさを慰めると称して、よく極楽浄土を味わわせるという。女もああして念仏に来るからには、だだを亡くしているのだろうし、男は先達の家の者で、心経も上げれば御詠歌の導きもする。

なぜ「私小説的冥界譚」であったか

と、仰々しく言ったものの、これはおそらく、そう突飛でも、そう真新しい読みではないはずだ(そうあってほしい)。が、それでも強調したかったのは、この主張がひとつの挑戦を導くものだからである。

以下に、本作が第70回(1973年下期)の芥川賞を受賞した際の選者コメントのひとつを紹介する。

友人が呼びにくるところでは軽く失望したが、致命的な傷とはならない。

丹羽文雄、「芥川賞のすべて・のようなもの」より
https://prizesworld.com/akutagawa/sp/senpyo/senpyo70.htm

「友人が呼びにくるところ」とは、本作の最終盤のシーンを指す。友人については冒頭でチラッと言及されるものの、その描写からしてまったく本作の根幹には関わりそうにない、互いに忘れかけていた存在であった。それが「私」のようすを見に来たと言う。外はすっかり雪解けし、春を迎えていたのだが、「私」は寺を出るきっかけがつかめないまま居着いてしまっている。そんな「私」を、友人はハイヤーで各集落を訪ねて回り、ようやく寺にたどり着いたのだと言う。雪のなかをはるばる歩いた「私」とはえらい違いである。友人と「寺のじさま」に促されて「私」はようやく、寺を出ることを決意する。名残惜しむような素振りを見せる「私」に対して、友人は当然ながらこの地に深い思い入れもないようすで、飄々と寺の敷地を出る──というところで、この物語は終わる。

たしかにこの結末は、そのまま読めば唐突で、尻切れ蜻蛉の感があり、これまでの幽玄な空気感をかき消してしまう俗っぽささえある。「軽く失望した」と言う丹羽文雄の評もわからないではない。

だが、もうお分かりと思うが、ぼくはここに一石を投じようとしている。かぎりなくパンピーに近いぼくが、丹羽文雄ほどの文豪に向かって。こう書くと急に怖くなってくるが、ここまで書いてもう止められないので、すいませんが先生、草葉の陰から末永くお見守りくだされば幸いです。

さて、冥界譚という補助線を引いたことで、察しのいい読者であればぼくが何を言わんとしているか、推測は難しくないはずだ。
すなわち、この「月山」という物語はこのかたち以外で終わることはできなかった。冥界譚の締めくくりは「帰還」でなければならないから、である。

「私」は黄泉竈食=村の女との契り=の誘惑を逃れた。ゆえにこのまま冥府に留まる理由はないのである。「死」をその眼前に見ながら豊葦原に帰還したイザナギ本人よりもむしろ、望んで来たわけではないが丁重に扱われ絆されつつあったペルセポネーに、やはり「私」は近いように見える。
友人とはペルセポネーを迎えに冥界へ降りたヘルメスであり、ハイヤーという文明は翼のついた帽子である。ヘルメスは計略に富んだ商売の神だが、この友人というのもまた、商魂たくましい人物である。ペルセポネーが地上に戻った喜びから春が訪れたというエピソードにまで本作との関連を見るのは、さすがにこじつけが過ぎるだろうか。

果たして、どこまでが実体験でどこからが虚構か。本当に、リアリズムによってのみ認められた、良くも悪くも静謐な作品なのだろうか。そもそもこれだけ深読みしておいて「いや、偶然ですよこんなの」というのも──それはそれで、文学っておもしろいですよね。

おわりに

象徴的で比喩的に描かれるカメムシも論の補強に使えそうだったのだが、文字数も膨らんできたことなので割愛する。拙文をきっかけに興味を抱かれたかたがおられたら、読むときの楽しみにとっといてください。

最初から気合入れて書きすぎて次回以降に対するハードルを自ら上げてしまったことが悔やまれるが、今後も気が向いたらやっていくものとする。次回更新は未定です。

以下に追加コンテンツはありませんが、投げ銭をいただければ次回以降への(あるいは創作活動への)励みになります。西河理貴の今後にご期待いただけましたら、是非ご一考ください。よろしくお願いいたします。

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