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【考察】結局「もののけ姫」は何を伝えたかったのか?「生と死」という観点から。

4年前に娘が生まれてから「もののけ姫」のブルーレイを買った。娘がタタリ神を恐れなかったので、誇張じゃなく200回くらい観たと思う。

1997年公開の作品。すでに26年が経っているにも関わらず、まったく色褪せることなく僕たちにメッセージを投げかけてくれる。来世紀にも残る名作だと思う。

いつだったか忘れたが、このWEBサイトと出会ったことで僕の「もののけ姫」観は多く変わった。映像研究家の叶精二さんによる解説。宮崎駿監督が民族・歴史・文化について、膨大な情報量を1シーンごとに詰め込んでいるのかわかる。未読の方はぜひ読んでいただきたい。

http://www.yk.rim.or.jp/~rst/rabo/miyazaki/kisochishiki.html

時代は室町時代。隠れながら「縄文文化」を継ぐ東北地方の蝦夷の青年が、西に残るシシ神の森と、たたら製鉄という人間の業に出会った時、「どう生きていくか」を問われるという物語。

この作品を「人間 対 自然」だとか「自然を守ろう」といった結論で片付けてしまう人がいるのだが、そういった「浅い二元論」的な話を宮崎駿監督はしていない。

宮崎駿監督は「どうして、人は争うのか」「どうして、憎しみは連鎖するのか」といったアジェンダを設定しながら、その根源として「生と死」という人間の解釈を捉え直すことをこの作品で取り組んでいる。

まず、本作で登場する主要なキャラクターを紐解くことで、その輪郭が見えてくる。

死を恐れる登場人物たち

アシタカは、タタリ神となったナゴの守から祟りをもらい「骨までとどいてそなたを殺すだろう」とヒイさまに宣告される。物語が進むほどアザは広がり、一歩ずつ死が近づいてくる。

サンもまた「死などこわいもんか!人間を追い払うためなら生命などいらぬ」と言いながらも、母親であるモロの死は恐れている。

そのモロは「きやつ(ナゴの守)は死をおそれたのだ。いまのわたしのように。わたしの身体にも人間の毒つぶてが入っている。ナゴは逃げ、わたしは逃げずに自分の死を見つめている」と、犬神でありながらも近づく死を恐れている。

乙事主は多くの仲間を失った憎しみにその身を焼きながら、死を恐れ、生に執着するなかでタタリ神になる。

死への恐れと憎しみから、我を忘れる乙事主。

大和朝廷の天皇である「天朝さま」についても死に関する説明がある。天朝は、師匠連を通じてエボシにシシ神退治を命じているわけだが、その理由が「シシ神の生首に不死不老の力がある」からだとほのめかす会話がエボシとジコ坊の間で行われる。この時代のすべてを手に入れているはずの天朝もまた死を恐れ、永遠の生を手に入れようとしているのだろう。

また、ジコ坊はアシタカとの出会いの際に「人はいずれ死ぬ。おそいか早いかだけだ」「肝心なことは、死に食われぬことだ」と、師匠からの教えを諭す。一応、坊さんなりに死について向き合っていることが見受けられる。

一方、これらのキャラクターとは対照的に死を恐れず、生を奪うことにも躊躇のない存在として「エボシ御前」というキャラクターが描かれる。国崩し(朝廷転覆)という自らのエゴのために森を焼き、新型の石火矢を極秘に製造する。最終的にはその石火矢でシシ神の首を飛ばす。

そのシシ神はどのような存在なのだろうか。作中、最も美しいワンシーンでそれが説明される。

(ジブリ公式提供の場面写真になかったので、我が家の絵本より)

アシタカが石火矢に倒れ、死地をさまよっている際に、シシ神に傷を癒やされた時に見た夢の中。シシ神がその足を一歩進めるたびに、大地から草木が生まれ、また死んでいく。このシーンの表現は何度見ても美しい。シシ神は生も死も司る存在として描かれる。

そのシシ神は、エボシに石火矢の一発目を打ち込まれても穏やかな顔のままでいる。あの表情は「不死身だから」ということではなく「死を恐れていない」、もっと言えば「生と死が一体」の存在だからだと思う。

死を恐れる人間や神、己のエゴのために生きるエボシ、生と死が一体であるシシ神。これら3つの立場から「どうして、人は争うのか」「どうして、憎しみは連鎖するのか」というアジェンダに、ひとつの解を出すのがこの作品なのだ。

「死」への恐れが争いと憎しみを生み出す

ここからは僕なりの考察を入れながら話していく。宮崎駿監督は、もののけ姫という作品を通じて「生と死を分けている限り、この世から争いも憎しみも無くならない」ということを伝えているのではないかと思う。

「生と死を分ける」という分岐点を見事に表現しているのが、エボシによる二発目の石火矢によってシシ神の頭と胴体が分かれるシーンだ。シシ神の頭は黄金の液体があふれる「生」、肥大化し続ける胴体と黒い液体は「死」を象徴している。生と死が分離したことでシシ神の森は死に、人間の世界にも災厄が覆い尽くす。

また、このきっかけとなったのは自身のエゴに支配されるエボシによる石火矢だ。宮崎駿監督は他の作品でも「人類による火の利用」という深い業について表現しているが、生と死を決定的に分けたのは人間、またその文明の発展によるものだと表しているのではないだろうか。

生と死が分かたれると、どうして争いや憎しみが生まれるのか。それは「死」という概念があることで「恐れ」が生まれるからだ。これは作中のキャラクターで表現されていることではあるが、ほぼすべての人間にとっての共通概念でもある。

たとえば、自らの「生」が脅かされた時に人はどう振る舞うだろうか?自らが飢えて死ぬ恐れから、他者を襲うこともある。自らの家族の命が奪われそうになれば、相手の命を奪おうとするだろう。ある意味では自らの「生きたい」というエゴが、他者の生命よりも優先されるということである。人類の文明を遡れば、それは幾度となく行われてきたことであり、現代社会にも地続きである。

また、これは「人間」特有のものではなく、人間を含むあらゆる「動物」に共通することでもある。自然界の動物同士もまた、生死を賭けて争い続けている。今作でもナゴの守、乙事主、モロといった動物の神にも共通の事項として描かれていることは、本作が「人間 対 自然」というわかりやすい二元論ではないことを示しているだろう。

「生と死」をつなげる

では、僕たちはどうしたらいいのだろうか。宮崎駿監督のメッセージは、クライマックスの表現に込められている。

人間の手によって分かたれてしまったシシ神の「生」としての頭、「死」としての胴体。アシタカは「人の手でかえしたい」として頭を捧げ、胴体とつなぐ。分離してしまった生と死をもう一度、一体化させる試みとも言えるだろう。

「生と死が一体化したもの」とはどういうことだろうか。ひとつにはアシタカのもつ死生観にヒントがある。アシタカは最後に「シシ神さまは死にはしないよ。生命そのものだから。生と死とふたつとも持っているもの」という捉え方をサンに伝える。

シシ神の首を、人の手で返す。

この死生観は、たとえば縄文文化が受け継がれていったアイヌ文化から触れることができる。端的に説明してくれている文章があったので、引用させていただく。(中沢新一さんが所長を務めていた明治大学・野生の科学研究所での濱口稔教授の話)

カムイとともにある生活の背後に、アイヌはこの世とあの世の存在を意識していました。コタンに近いどこかに、あの世への入り口の穴があると考えていたのです。葬儀の時に方角にこだわるのは、コタンと穴の配置に深い関係があるからです。地域によって差はあるものの、生と死の世界を巡るルートが、アイヌ共同体ではイメージされていました。葬儀で送られた霊は、トンネルを通って生死の境界のような場所にいったん落着き、そこからあの世に向かいます。あの世では、死者は現世と同じようにのどかに暮らしていますが、季節は現世とは逆になり、夜と昼も逆になるあべこべ世界と考えられています。あの世でしばらく暮らした魂は別のアイヌとして再生します。生と死をつないで循環するものがあって、死は別の空間への移動と考えられ、アイヌは死を恐れず、魂の不滅を信じていたといわれます。

http://sauvage.jp/activities/2186

アイヌたちは「生と死」という観念は持ちつつも、魂は不滅で、循環するものという世界の捉え方をしていた。これはアイヌ文化だけではなく、多くの宗教や信仰の中にも共通して現れる話でもある。現代人としてはなかなか理解の難しい捉え方だが、物質的に説明することもできる。

たとえば、現代の僕たちは死んだ後に火葬される。肉体は燃焼して気体になるわけだが、その中に含まれる二酸化炭素は森林や土壌に吸収されているかもしれない。水分は雨となり田畑を潤すかもしれない。それは、僕たちの死が別な「生」につながるということだ。土葬の時代ならもう少しわかりやすいだろう。亡骸は土中の微生物の栄養になり、その微生物はまた多くの動植物の生命を育むことになる。その命をまた僕たち人間が「いただく」わけだ。

つまり「死=終わり」ではなく「死=新たな生のはじまり」という捉え方ができるのだ。

もしも、この感覚を本当の意味で僕たちが得ることができたのなら「死」を恐れ、「生」に執着する必要はなくなるのではないか?自らの「生」に執着することで他者の命を奪い、憎しみの連鎖が生まれることもなくなるのではないか?

もちろん、現実的には難しい。しかし、シシ神の「頭」と「胴」をつなげなおすというアシタカの行為に込めた宮崎駿監督の思いはここにあるのではないかと考えている。

どこからが「死」で、どこまでが「生」なのか

宮崎駿監督が「もののけ姫」を描く上で、様々な着想を得たとされる屋久島。去年、一昨年と僕も足を運んで、縄文時代から続く森に入らせてもらった。

人の手が入らずに残されている森では、巨木が倒れ、朽ちていく過程でまた新たな生命が育まれている光景を目にすることができる。

屋久島の朽ちた杉から様々な植物が育つ。生と死の境はどこだろうか?

その光景を見ているとどこまでが「死」で、どこまでが「生」なのかわからない。

「生」と「死」が分かれているのは、ただただ、僕たちの考えの上だけなのかもしれない。

争いや憎しみがどこからやってくるのか。それを考えるのが「もののけ姫」という作品だ。

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作中の登場人物のセリフについてはこちらのサイトを大変参考にさせていただきました。感謝。

植原正太郎 NPO法人グリーンズ 共同代表
生きる、を耕す。」ための実践WEBマガジン「greenz.jp」を運営するNPOグリーンズで健やかな経営と事業づくりに励んでます。熊本県南阿蘇村に移住しカルデラの中に暮らしてます。釣りとスケボーと自給自足がしたい二児の父。Twitter:little_shotaro


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