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同調圧力国家は多様性を受け入れられるのか?

日本に生きていながら違和感を感じることはレールからはみ出ることの難しさだ。
この国では生まれた瞬間に”社会” ”常識”という誰かが作った(この目的が大量のサラリーマン”という名の働き者ロボットを作って、税金をボコボコ払わせるものだということを後々知るのだけど。)レールの上に整列させられ、1mmもはみ出ないように親や教師や上司によって教え込まれる。
そこからはみ出て”自我”を持つことが、あまりにも悪であるかのように。

それが10数年前InstagramやYouTubeが日本で人気が出てから、”サラリーマン”以外の生き方をする人も生まれ、まるで”自分らしい”生き方をしているような人々も増えた。

でも、それもただ”カテゴリー”が増えただけで、テンプレートが大好きなこの国では、その新しいカテゴリーでさえ見えないルールに縛られているように思う。

例えば、新しい働き方を推奨している会社があるとしよう。
他にはない福利厚生を作り、外から見ればまるで個人の采配に全て任せているようなホワイト企業。
そこにいる社員は優秀で、それを本人たちも自負している。
でも、そういう会社こそカルト化しやすいと私は思う。
私が知るその会社では、知らず知らずのうちに社員が同じような服を着て、同じような雰囲気を纏っている。
それを本人たちや、外から見る人はカルチャーと呼ぶかもしれないが、彼らの潜在的な部分で、「このチームからはみ出たら、私は優秀ではない側にカテゴライズされてしまう。」という恐怖があり、意見も言わず、意見を言うときは常に用意された答えに合わせるよう努力する。
その会社の代表を無意識に崇拝する形で同じような姿形、話し方さえも変わっていってしまう。

私は仕事柄、インフルエンサーと呼ばれる類の方々とお仕事をすることも多い。
その方々と会って、会うまでは彼らを「世界を飛び回ったり、華やかな世界で生きていて凄いな」と思っていたのだけれど、いざ中の世界を見ると全員同じような持ち物で、同じようなメイクをして、同じような人たちとつるんでいる、彼らが凄く小さい箱の中で生きていることに気づく。

まるで、そのカテゴライズされた世界に自分の身をわざと置き、世間にどう見られるかを重要視する。
それが日本という国ではないだろうか。

私は幼少期、学校で作られる友達グループに違和感を感じていた。
親友と呼べる友達もいたけれど、いつもその子のいるグループに所属はせず、フラフラと他のグループを渡り歩いた。
だって、オシャレの話や恋愛の話も良いけれど、アニメの話だって、旅行の話だって進路の話だってしたかったから。
だからお昼ご飯も普通は皆んな、仲良しグループで食べるのだけれど、私は「今日はあそこと食べる」と言う感じで、好きなところで、その日の気分で食べてたから、周りによく「変わってる」と言われたものだ。

その時から、私は自分を考えることが好きだったけれど、カテゴライズされることが大嫌いだった。
でも、そんな私の両親は所謂日本人の両親だった。
娘に対して良い大学に行き、良い企業に就職し、高学歴の人との結婚を夢見ていた。
その両親の夢を私は19歳の時に壊し、自分の道を歩いていき、結果8回も転職する人生を送っている。
そして社会に出れば自分らしく生きれると思ったけれども、どのようなスタイルの会社に行っても、そこに存在する村の住民になる必要があり、どこでも私は異質の存在として扱われた。
その異質の人間が結局誰も成し遂げなかった結果を残していくのだけれど。。。

私は人とは違うと自信を持つことはできる、でも同時に常に日本では、自分がまるで宇宙人のような孤独も感じる。
「なぜ私は皆んなのように黙ってルールに従えないのだろう」「なぜ私は疑問を持ってしまうのだろう」と悩むことは多い。
あれこれ考えず、ただルールに従っていれば人生はもっと楽になるだろう。ある意味、諦めを覚えると楽になるのと同じように。けれど、私は個人の自由と権利を脅かすことに対しては、許すことができないのだ。

日本という国は皆んな、同じような姿でこの小さな島国でしか通じない不思議な言語を話す。
だからこそ、村化しやすいことは容易く想像できると思う。
その弊害としてダイバシティ&インクルージョンという言葉だけ一人歩きし、本当に意味を理解していない人が多いことが、いくら努力しても結果につながらない証拠ではないか。
どの企業でもダイバシティ&インクルージョンという言葉の下、担当者が努力をしていることは知っている。
でも、なぜ上手くいかないのか、それは日本人がそもそも持つ根深い同調圧力による文化のせいではないか。
沢山の日本人と仕事をしてきたけれど、どれだけ海外に飛び回っていようが、海外で住んだことがある人でも無意識にある”日本人らしさ”による弊害を残念ながら見てきた。
若い親たちも子供の英語教育に熱心だし、性別による決められた考え方を取り除いた育て方を心がけている。
けれど、なぜ日本人がグローバルに活躍できないかの問題は、そこではない。
そのような表面的な部分ではなく、自分たちがいるコンフォートゾーンにこそ弊害があるのだ。
そこに気付き、自分の考え方や感覚は誰のスタンダードなのか、それが誰のものかが目に見えた時点で自分に目を向き直し、「私は誰なのか」を問う。それがこのカルト社会から抜け出す第一歩なのではないだろうか。

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