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飲食店などでの迷惑行為に対してSNSで批判している人のほとんどが自覚していないこと/エッセイ

(*長くてすみません。お時間ありましたら読んでみてください。)

 私のような古い人間だとネットがなかった時代を覚えている。

 例えば35年ほど前、ネットのない時代に起業したとする。サービスにしろ物にしろ、売るためには広告が必要になる。どんなに良いものでも、広く多くの人に知ってもらわないと売り上げにはつながらない。昔はこの広告がとても大変だった。

 広めたい範囲にもよるが、例えばチラシ。ポストへ投函したり、街頭や駅前で配ったり、もう少し広告費を割けるなら新聞に挟む。もっとお金をかければ新聞に広告。雑誌や看板なんてものもある。トップはTVCMだろうか。

 ネットのある今の時代、この広告の手間が劇的に変わった。個人が簡単にTVCM並みの広告を張れるようになった。これが如何に凄いことか、残念ながら生まれたときからネットがあった若い人たちにはピンと来ないかもしれない。

 インスタに公告(っぽいもの)を出せば、リアルタイムに世界中の多くの人達の目に触れる。Twitterで呟けば、また、少しお金を積めば、かなりの人達へ瞬く間に伝わっていく。

つまり、昔はTV局や新聞社しか持ちえなかった情報発信能力と同等かもしくはそれ以上の能力を、個々人が持つまでになった。まさしく小学生からお年寄りまで、世界へリアルタイムに発信できるTV局の記者であり、カメラマンであり、アナウンサーであり、社長である。

 飲食店での迷惑行為の炎上は、まさにこのとてつもない情報発信能力を見くびっていることによるものである。こう言っては語弊があるが、ネットがない時代からバカをする者は一定数いた。筆者も昔酔って…(自主規制)。しかし、この馬鹿な行為をネットで発信することで次元が全く違うことになる。(しっかり断っておくが、バレなければ馬鹿な行為をしていいと言っているわけでなない。)

 この馬鹿な行為がネットに流れるとその後どうなるかは、皆さんよくご存じのことと思うので改めてここでは述べない。ここでの話は、その一連の話題に対して個々人が発信している行為についてである。

 例えば、野球ファンが居酒屋で贔屓のチームの監督の采配に対する不満で、汚い言葉で批判しているとする。その場所が居酒屋ならそこで終わる。しかし、同じ言葉をネットに乗せるとどうなるか。あまりに酷い場合は名誉棄損で訴えられる。当たり前のことである。公共の場で侮辱すればそうなる可能性がある。

  つまり、ネットでの"全ての"発言には大きな責任が伴う。「ぬこ可愛い」と発言しても、迷惑行為の動画をネットで発信しても、それぞれ同じ責任が伴う。その発言がどんなに正論でも、どんなに事実に基づいたものでも、その言葉に発信者は責任を持たなくてはならない。(無論このエッセイもである) 

 発言に責任を持つ。それは、発信は熟慮して行うべきである、ということである。こう書くと、一部の人は「いや、こっちは嫌な思いをしたんだから自由に文句を言う権利はあるだろ!」と言うかもしれない。もちろん、権利はある。言って構わない。

 ただ、それを知り合いとの世間話で終わるのか、ネットに発信するのかで大きな違いがあることを多くの人は意識しているだろうか? この行為が先ほど例に挙げた監督の采配への不平不満と同じ構図であることに気付いているだろうか。

 さらに一部の人はこう反論するだろう。「自由に発信出来ないのは言論の自由に反する!憲法違反である!」と。

 そもそも表現の自由も含め、その成り立ちは、公権力に対して民衆の表現を保護する権利である。個人の迷惑行為に対して、"悪いことをしたのはそっちなんだから何を言っても良い" というのは拡大解釈である。

 表現の自由の権利は、個々人の思想を良心を持って自由に発信するすることで社会の進歩に繋がることも期待される、という目的がある。はたして、貴方のその罵声罵倒は、社会の進歩に繋がるような、良心からくる思想的なものになっているのであろうか?

 付け加えて、例え思想でなく事実を述べただけだとしても、ネット社会の今は数の暴力があることを意識すべきである。何万もの人から「貴方はこういう悪いことをしたのですよ。理解してますか?」と言い続けられる状況を想像してほしい。普通なら気が狂う。数も集まればそれは私刑(リンチ)となる。加害者が事の重大性を理解しているのであれば、もうそれ以上言う必要もあるまい。あとは司法の場に任せればよい。

 つまり極論を言えば、迷惑行為を発信する行為も、それに対して誹謗中傷を発信する行為も、大きな括りで言えば同じようなものであると理解すべきである。

 はたして、貴方の名前が付いた『マスメディア』から発信される情報は、一般人に対して憂さ晴らし的な、誹謗に近い非難ばかりになっていないであろうか。 私自身への自我も合わせて、気を付けて行きたいところである。

 個々人の発信内容がより良い社会思想に繋がるものであれば、それは必ず多くの人が望む社会となっていくはずである。そう期待して日々発信していきたいものである。

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