見出し画像

【ショートショート】 夢の孤独

 蝉の声が劈く。
 今年もまた、光弘は文机に向かっていた。窓の下、吹き込むぬるい風を頭頂で受けながら。背後では歪な音をあげ青い羽根の扇風機が、蒸せる身体を冷まそうとしている。脇に置いた二リットルの水には、熱中症対策のために塩を少しだけ足してあった。去年も一昨年も、そうやって乗りきってきた。
 光弘の部屋は質素だ。壁際には積み上げられた本、机の上には三冊の国語辞典と一冊の読みかけの本、それに大して鳴らない携帯電話。シンプルな黒のデスクライトはこの部屋に実に不似合いだが、光弘には必要不可欠なものだった。日の高い今も、光弘の手元をしっかりと照らしている。台所には今朝方から、実家から送られてきた段ボール箱が居座っているのだが、デスクライト以上の違和感を放っていた。
 暑い。汗が原稿に落ちてしまわないように、首にかけたタオルで拭きとる。光弘は五本で百円のボールペンを握りしめ、必死に原稿に食らいついていた。
 窓の外では自転車がベルを鳴らし何かに危険を知らせ、バイクが唸りながら走り去る。耳をすませば聞き取れそうなほど近い道路で、姿の見えないおばさん2人が話している。
 光弘は髪を掻きあげようとして、手を止めた。そんなことをすれば、汗が散って、原稿が駄目になる。これだけ気を配っているのに、光弘は一文字も書けないでいた。
 沈黙は偶発的に訪れる。暑さに鼓膜が焼かれたかのようだ。その隙間を狙って、背中越しに、置きっぱなしにした段ボール箱が話しかけてきた。
 あんたもういい歳なんだから、仕送りの一つもできないの。
 そんなんじゃあ、お嫁さんも貰えないじゃない。
 この前もお見合い断ったのよ。いい加減、まともな職に就いたらどうなの。
 呆れた母の声だ。仕送りと一緒に送られてくる手紙。いつも同じ話ばかりの手紙。脳内に響く声は、重たい石になって光弘に圧し掛かる。段ボール箱を満たすカップ麺の群れは、細やかな良心を満たすためのもので、真心なんかじゃない。光弘は握ったペンを離さないよう、拳をつくった。蝉の声に促されるように、また汗が流れる。顎を滑り落ちそうになって、すんでのところで拭いとる。
 気をまぎらわせようと、光弘は二リットルのペットボトルに手を伸ばした。瞬間、携帯が光る。光弘は静かに手を引っ込めると、ペンを握り直した。
 バイト先からの連絡なら、カッコウの鳴き声で知らせてくれる。ワンギリの短さで止むのなら、それは地元の友達からの緊急ではない連絡だ。わざわざ見る必要はない。原稿に視線を定め、おばさんの話に耳を傾けようとした。だが年賀状で見た同級生とその嫁と子供の笑顔に、十全と遮られる。
 なに、お前まだフリーターやってんの? いい加減諦めろよ。お前、才能ないんだって。
 夢追うのも二十五歳までって言ってなかったっけ? お前、今いくつだよ。
 夢追い人なんて、もうカッコ悪い歳だろ。目、覚ませよ。
 頭を揺さぶる声に、歯を食いしばる。破り捨てたはずの年賀状は、目蓋の裏に焼きついて離れず、三人の笑顔は携帯が光る度に光弘を惨めにさせた。
 そう遠くはない道路、姿の見えないおばさん二人が話している。今年も暑いですね。この暑さ、まだまだ続くみたいですよ。もう九月になるのにねえ。今年もまた秋は来ないんでしょうね。
 原稿用紙に滴が落ちた。額から、汗が落ちた。目から、涙が落ちた。
 光弘は今日、また一つ歳を重ねた。


「良かったよ」と思って頂けましたら
イイネ/フォローをお願いしますm(_ _)m

《《《 13 │15 》》》


この記事が参加している募集

スキしてみて

文学フリマ

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?