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曹操とは?「曹操の行った虐殺、粛清」消されるWikipediaの史実

歴史修正主義者たちに消される予定のWikipedia「曹操」の史実、ここに貼っておきます。

削除の経緯はまえの記事にあります

まとめ主によれば2023年6月前半の記事が「史実に近くてまともなほう」だそうです。

アーカイブの記録

ここから、歴史修正主義者たちが削除しそうな話だけ貼っていきます。
次の見出しからはインターネットアーカイブの引用です。

Wikipediaの記事に書かれた文は、ルールを守っていれば利用可とのことで、転載することに法律上の問題はないそうです。
ここのトップ画像もWikipediaの「検閲」からお借りしました。

〔冒頭〕曹操とは

曹 操(そう そう、拼音:Cáo Cāo、永寿元年(155年) - 建安25年1月23日220年3月15日))は、後漢末期の武将政治家詩人兵法家としても業績を残した。孟徳[注 1](もうとく)、幼名は阿瞞、また吉利豫州沛国譙県(現:安徽省亳州市譙城区)の出身。

後漢の丞相・魏王で、三国時代の基礎を作った。廟号は太祖、諡号は武皇帝。後世では武帝、魏武とも呼ばれる。

民間人虐殺や捕虜虐殺、廷臣の大量粛清、皇帝を傀儡化し漢王朝を専横した等の史実によって古来悪名が高く 羅貫中の小説『三国志演義』でも敵役・悪役として設定されてきた。

近現代では魯迅・毛沢東ら共産主義者により曹操称揚が提唱され、文化大革命後においては中国共産党の指導により歴史評価の修正が推進されている。 日本でも吉川英治『三国志』、李學仁・王欣太『蒼天航路』等の創作作品が容姿端麗な正義の人として描き、曹操の美化称揚に貢献した。後に渡邊義浩等を代表とする歴史学者も曹操称揚の主張を展開し、曹操を英雄視する見方を主流として宣伝している。

曹操の外見

曹操の外見は正史本文(陳寿『三国志』)には書かれていない。野史には「形陋[21]」「姿貌短小[22]」とある。陵墓の発掘結果によれば、その身長は約155cm[中国之声《央広新聞》(2009年12月27日)]であった。また前出通りその際の分析によって、晩年の曹操は虫歯や歯周病で歯をほとんど失っていたことがわかっている。
曹操は使者の謁見で常に身代わりを立てたと伝わるが[注 13]、身長が低く歯が無かったことや、野史の通りであるなら歪んだ醜い顔をしていたために容姿に自信がなかったと考えられる。

※注13 崔琰は立派な容姿をしていたため曹操の身代わりとして使者に謁見する役を担った(『世說新語』)。崔琰のその後については後述の「曹操の犯した虐殺、粛清」を参照。

曹操の犯した虐殺、粛清

曹操は『三國演義』以前から沢山の残虐行為が歴史書に記載されている。
現代日本・中国の曹操支持者及び、曹操称揚の立場に立つ歴史学者たちは曹操の悪行 を真摯に受け止めず、悪行の否認、疑問視、軽視、正当化[注 24]Whataboutism的相対化[注 25]ニヒリズム的に開き直った言説[注 26]が盛り上がりがちである。陳寿三国志を筆頭とした幅広い歴史書に書かれた悪行全体ではなく「曹操は偏った歴史書や演義で悪く言われている」[注 27]という部分に焦点が当たりがちであり「曹操は不当に貶められている」という被害者意識が共有される傾向にある。
以下に曹操が犯した具体的殺戮について、正史三国志(陳寿三国志本文および裴松之注に引かれた史書)の記述を列挙する。

  • 呂伯奢一家の殺害。

曹操が董卓から逃走した際に匿おうとしてくれた呂伯奢と、彼の家人を皆殺しにした。殺害に至った経緯については複数の記述が存在する。

「呂伯奢の息子が馬を盗もうとしたため正当防衛で殺害した(王沈魏書』)」

「呂伯奢一家のもてなしを受けた後で、通報されたら困ると考え殺した(裴松之注『世語』)」

「呂伯奢の家人が食事の用意のために食器を並べていた音を武器の音と勘違いし、殺される前に殺した(孫盛『異同雑語』)」

  • 攻略した城の破壊、住民虐殺。

曹操は父親が徐州で殺されたことを怨み、193年、194年の二度にわたり徐州を襲撃した。

「曹操の軍によって徐州では男女数十万人が坑殺され、泗水は投げ込まれた死体で堰き止められ流れが止まった。泗水より南の慮・睢陵・夏丘の諸県を攻取し、皆なこれを屠城した。鶏も犬もいなくなり、廃墟になった」とある。(范曄後漢書』陶謙伝 『曹瞞伝』)

三国志武帝紀本文には「曹操軍が通り過ぎたところ多くの殺戮が行われた[42]。」と犠牲者数には触れないものの各所の虐殺を一括した表現による記載がある。

三国志荀彧伝、三国志孫策伝注、三国志笮融伝、三国志諸葛瑾伝、後漢書陶謙伝等からも徐州虐殺の存在、虐殺による影響が分かるようになっている。 尚、徐州崩壊の原因は飢餓によるもの、という記載は見当たらない。

上記徐州虐殺を筆頭に曹操軍は複数回に渡り「屠城」を行った。これは同時代で一番多い回数である。

  • 太祖攻圍數月、屠之(三国志呂布伝)

  • 屠彭城(三国志武帝紀)

徐州虐殺とは別件。呂布討伐時

  • 曹操攻屠鄴城(後漢書孔融伝)

水攻めで城を破壊した他、袁氏の婦女を犯した、と記載あり

  • 太祖征三郡烏丸、屠柳城(三国志公孫度伝)

  • 淵與諸將攻興國、屠之(三国志武帝紀)

  • 冬十月屠枹罕斬建(三国志武帝紀)

  • 公攻屠之(三国志武帝紀)

  • 仁屠宛斬音(三国志武帝紀)

反乱を起こした民を屠った。

曹瞞伝では反乱を起こした理由は圧政に耐えかねたため、とある

  • 官渡の戦いで捕虜虐殺

官渡の戦いの戦後処理で捕虜を生き埋めにした。

餘衆偽降、盡坑之(『三国志袁紹伝』)

裴松之注には「諸書にすべて、公(曹操)が穴埋めにした袁紹の軍勢は八万ないし、七万だと書かれている。」と記されている。"諸書にすべて"とあることから、当時は誰もが知る事実であった。裴松之自身はこの数について疑問を投げかけている。

また戦時中のことであるが 千余人の士卒を殺し、皆な鼻を削ぎ袁紹軍に誇示した(『曹瞞伝』)、と捕虜を殺害、暴力を加えた記述もある

  • 朝臣を大量に殺害

曹操が許に献帝を迎え権勢をふるうようになった頃の記録に、「宮廷の内外で曹操によって誅殺された者が多くいた」とあり、粛清された被害者の代表として議郎の趙彦の名が挙げられている。(『後漢書』伏皇后紀)。

  • 私怨で多数の人物を殺害

曹操は許で献帝を傀儡とし実権を得た後、かつて自分を批判した者など怨みがある人々を殺害した(孫盛『魏氏春秋』陳琳の檄文)。

辺譲は博学で曹操にも屈せず批判的な議論を続けたため、曹操の怒りを買って処刑された。(陳琳の激文)尚、後漢書辺譲伝では辺譲は建安年間に亡くなった、とある。

袁忠は沛国の相だったときに曹操が法を犯したので罰しようとし、曹操の怨みを買った。袁忠は遠方の交州へ亡命したが、曹操は使者を派遣して士燮へ依頼し、袁忠と一族を皆殺しにした。(『曹瞞伝』)

かつて曹操が若い頃に侮って彼を見下した桓邵も、同じく身の危険を感じて交州へ亡命していたが曹操の差し金により一族皆殺しとされた。(『曹瞞伝』)

  • 建安5年(西暦200年)の大処刑事件。

車騎将軍の董承は献帝の密勅を受け、曹操の暗殺計画を企てた(『三国志-先主伝』[43]。しかし事前に発覚し、計画に関係した者[注 28]は一族もろとも処刑された。このとき董承の娘は献帝の妃で妊娠していたが、彼女も捕えられ殺害された。

  • 皇后とその一族を殺害。

皇后の伏寿は、もと屯騎校尉であった父親の伏完へ「献帝は董承が殺されたので曹操を怨んでいる」旨の手紙を送っていた。しかし伏完は曹操排除を実行できないまま死んだ。この手紙が建安19年(214年)に発覚し、彼女は廃され殺された。兄弟ともども伏一族は処刑された(『三国志武帝紀』

他の歴史書にはより詳細な記載がある。

曹操は華歆に命じて兵を使って宮中に押し入った。皇后は二重壁の中に隠れたが、壁は壊されて引きずり出された。ちょうどそのとき郗慮と会っていた献帝は、髪を振り乱し裸足のまま連行されようとしている皇后が「陛下、またお会いできるでしょうか」と涙ながらに助けを求めたのに対し、「私でさえいつまで命があるかわからないのだ」と言って為す術なく眺めることしかできなかった。皇后はそのまま連れて行かれて殺され、彼女の一族も数百人が殺された(呉人『曹瞞伝』  後漢書伏皇后紀)

尚、伏寿と献帝の間には子が二人いたが、この子供たちも殺されている(『三国志先主伝』 後漢書伏皇后紀)。

  • 孔子の子孫である孔融を殺害

博学な学者として名声が高かった孔融を疎んじた曹操は「孔融が呉の使者に対し朝廷を誹謗する発言をした」と罪を被せ、孔融の妻子とともに処刑した(『後漢書』孔融伝)[注 29]

現代日本では癇癪を起こした曹操ではなく孔融を処刑含めて冷笑する言説が盛んであるが劉基が孫権に諫言した逸話のように、当時から不当処刑として扱われていた。

  • 名医華佗を拷問の末に処刑

華佗は曹操の頭痛を治療していたが 帰郷の念が募り、医書を取りに行くといって故郷に戻り、その後は妻の病気を理由に二度と曹操の下に戻って来ようとしなかった。妻の病気が偽りと判明したので、これに曹操が怒り華佗を投獄し、荀彧の命乞いも聴かず、拷問の末に殺してしまう(『三国志華佗伝』)。

  • 崔琰の投獄と自害命令。

崔琰は優れた体格と威厳ある容姿をしていたため、曹操の代わりとして使者の応対をしていた(『世説新語』)

後に崔琰は丁儀の讒言で投獄されたが、囚人となっても立派に見えた(辭色撓まず[44])ため曹操に疎まれ自害を命じられた(『三国志崔琰伝』)

崔琰は人望があり、「曹操に嫌われ殺害された人物のなかで、崔琰は最もその死を惜しまれ、未だに冤罪で殺されたと信じられている」と陳寿が評している。

楊脩は曹操が劉備との戦役中につぶやいた「鶏肋」という暗号を解いた人物だった。しかしその後に曹操が彼を処刑している。処刑の理由は諸説ある。

袁術の甥であったことから曹操に警戒されて処刑された説(『後漢書』)

曹操が嫌う曹植の味方をしたことで疎まれ処刑された説(『三国志曹植伝』、『典略』)

  • 優秀だった少年を危険視して殺害。

幼少時から名高かった周不疑を、曹操は始め息子の曹沖の側近にしようと考えていた。しかし曹沖が死亡した後、曹丕には扱いきれないだろうという理由で彼を危険視し殺した。享年17歳だった(『零陵先賢伝』)。

  • 愛人を撲殺。

曹操は昼寝をするときに寵愛している女性を傍にはべらせる習慣があった。あるとき「すぐに起こしてくれ」と言って女性の膝枕で寝込んだが、よく寝ていたために起こせなくなった女性がそのまま寝かせていた。しばらくした後に自分で目を覚ました曹操は激怒して、この愛人を撲殺してしまった(『曹瞞伝』)。

  • 洛陽の北部尉時代、厳しい禁令をつくり僅かでも破った者へ極刑を下した。

霊帝に寵愛されていた蹇碩の叔父も、禁令を破り夜間外出したために即座に捕えて撲殺した。都の人々は震え上がり曹操を憎んだが、追放する口実がなかったため彼を称揚し、頓丘県令に転出された(呉人『曹瞞伝』[注 30])。

  • 兵糧不足の責任を担当係へ押しつけ、処刑。

敵の討伐に赴いた際、糧秣が不足してきたので困った曹操は担当係を呼んで「どうしたら良いか」と訊ねた。すると担当係は「枡を小さくすればどうにか食いつなげます」と答え、曹操はその通りにした。しかし兵士たちが枡が小さくなったことに気付き、「曹操は自分たちを騙している」との噂が流れると兵糧の担当係に罪をなすりつけ処刑し、「この男が枡を小さくして糧秣を盗んでいた」と布告して遺骸をさらした(『曹瞞伝』)。

  • 消火に加わった者こそ本当の賊であると主張し、全員を殺した。

曹操は王必が死んだと聞くと激怒し、漢朝に仕える百官を鄴へ召し寄せ、消火に加わった者は左に、消火に加わらなかった者は右に集まらせた。人々は消火に加わった者は無罪となるに違いないと判断し、皆、左の方についた。曹操は「消火に加わらなかった者は反乱を援助したはずはないが、消火に加わった者こそ本当の賊である」と主張し、全員殺した(『山陽公載記』)。

  • その他

膨大で書ききれないため殺された被害者をここにまとめる

  • 侍中の臺崇、尚書の馮碩(後漢書献帝紀)

  • 琅邪王の劉熙(後漢書献帝紀)

  • 王模、周逵(三国志陳羣伝)

  • 婁圭

  • 赤壁の敗走中に自軍兵士を踏み殺す(山陽公載記)

曹操の扱い方

陳琳の檄文や、圧政・重税に苦しむ住民の反乱(『三国志-武帝紀』)などからも窺える通り、数多くの虐殺と漢朝廷の蹂躙・独裁を行った曹操への憎悪は同時代では大変に激しいものがあった。 同時代の憎悪が後を引き、曹操没後百年近くたった五胡十六国時代、既に曹操は批判の対象にされていた。曹操の後継政権である西晋を滅ぼした後趙石勒は、曹操を司馬懿と並べて「孤児や未亡人を欺き、騙して天下を取った」(『晋書』石勒載記)と痛烈に非難している。…

近・現代の再評価(評価修正)

『三国志演義』の影響によって悪役としての評価が定着した曹操であるが、1950年代以降に入ってからは、「反儒教」のイデオロギーを掲げる中国共産党下の学者によって評価修正が進んでいる。

中華人民共和国成立前の近代の中国においては、西洋の進出に対してその劣位が明白になり、幾度となく近代化を目指しては失敗した背景に、思想的な儒教・華夷思想への偏重などがあったと反省され、思想的な枠組みを超えて合理性を追求した曹操の施策が、魯迅など多くの反儒教イデオロギーを持つ共産主義者によって評価修正された[注 32]

特に曹操の評価修正を盛り上げたのは毛沢東で、彼の主導の下、曹操再評価運動が大々的に行われた。郭沫若が戯曲において曹操を肯定的に評価したのもこの頃である。また、文化大革命の時の批林批孔運動でも、曹操は反儒教の人物として肯定された。なお、「反儒教」とはマルクス主義に基づくイデオロギーの運動である。マルクス主義を始めとする共産主義では帝国主義の骨格となる伝統を否定し、人々の精神である文化を破壊し再教育(洗脳[注 33])することで、真に革命が成功すると考える。このため暴力で政権を奪い、恐怖政治によって人民を支配した後も、“精神の革命”である文化破壊と再教育が続けられる。中国など東アジアでは人々の精神文化の根幹となっていた儒教・仏教・道教が“啓蒙”こと破壊のターゲットとなった[注 34]。『三国志』は特に蜀漢が儒教的であるとの烙印を押され、共産革命による攻撃のターゲットとなった。従って中国共産党が大躍進政策などで政権基盤を固めていた1950年代から、蜀漢を貶めて曹魏を称揚するための歴史修正議論が噴出している。

「曹操は黄巾乱を承継して中国統一を果たすための礎を築いた」「曹操は民族主義で中国を守った」「曹操の屯田、新税制は農民を地主の圧政から救い、飢民を消失させた」とする郭沫若を始めとする曹操称揚の説は『曹操論集』にまとめられ、その後の三国時代解釈の教本とされた。当記事中「曹操の大躍進」も『曹操論集』の踏襲だが、これは毛沢東の大躍進政策を曹操に投影して称賛しているものと見られる。好並隆司もこの件について『曹操論集―曹操論争よりみた中國「中世」史の理論―』(1960.09,洋学報 : 東洋文庫和文紀要 / 東洋文庫 編)のなかで

所で、この論争(引用者注:郭沫若を発端とした曹操評価変更の議論)の背景には極めて大きな思想斗争が含まれ、政治的な問題が介在していると思われる。先ず、その事情について概略ふれておこう。新中國が解放以来、八年間に、ブルジョア思想の批判、反右派斗争はほぼ所期の目的を達したが、なお一部の知識人には革命の実践を避けて、古代史研究に名をかり、中國の建設をサボタージュする分子が存在するという痛切な批判が中共中央宣伝部の陳伯達から問題にされた。これが五八年三月上旬のことであり、彼の報告をきつかけに“厚今薄古”の必要性が問題となり、歴史の研究の大勢が、五四運動以降の近代史重點という風に理解されたのである。これ以降、中國史學界は急激な左翼志向を生じ、…(略)

と解説している。

批林批孔運動では、儒法闘争史観が主張された。これは中国思想を儒教の系譜(孔子・孟子などが中心)と、道家法家兵家墨家(老荘・韓非子孫子墨子等)や王充の二つに分け、儒家を悪の権化として法家を善玉とする史観である。中国共産党からすれば、これら二つの思想は「革命」の段階的進行であった、と説明されている[45]。身分制度を重視し、男女差別を人倫の基とした儒教の系譜に対しては否定的な評価がなされ、合理性を追求した法家の思想には甘い評価が為される傾向がある。その中で、曹操は法家の重要人物として高い評価を与えられた。そのため、曹操も単なる「悪役」から多少味のある「悪役」程度には評価を変えてきているようになり、京劇の隈取りも善玉のものに変えるよう政府から指示されたという(前述竹内論考)[注 35]

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