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アメリカ留学で体験した貴重なこと

私はクリスチャンではないのだが、ひょんな事からクリスチャンの人々と関わる機会が沢山あった。クリスチャンの人々の温かさや経験させてもらったことに対して今も非常に感謝している。


前書き
この記事において、宗教を宣伝したいわけでも、何か宗教的なメッセージを発信したいという事は一切ない、という事を初めにお伝えしたい。
ちっぽけな、いち日本人留学生、ねこぬ(無神論者)の立場から、実際に私が関わったアメリカのキリスト教団体についてどう感じたのか、どう思ったのか、という意見を出来る限り中立的な立場でお伝えしたい。
そして、彼らと関わる中でどう思ったのか、文化や宗教の異なる人と関わるのはどういうことなのか、について考えた事をただ書き残していきたい。
それだけである。
私は現在、その団体にも宗教的な一切の団体に関わっていない。
何教徒でもない。何の宗教も称賛/批判しない。
またアメリカで関わった団体も、ゴリゴリの宗教団体ではなく宗教をベースにしたゆるいサークルのような団体であったと認識している。
カルトでは全くない。その前提を今一度確認して読んでいただきたい。



目次
1クリスチャンの人と関わるようになったきっかけ
2どんな経験をしたか
3得られた学び
以上をご了承の上、良ければ読んでいただけると幸いです。

全体で9000字近くあります。
これまでのねこぬの記事と比べて、
超大作になっています。

留学に行く方に対し、
私の経験から、注意した方がいいと思う事も書いていますし、
宗教学に関心のある方にも、興味深い内容になっていると思います。


1クリスチャンの人と関わるようになったきっかけ

ワシントン大学に来てから、私は現地の人々と関わったり友達を作れたりするような居場所を探していた。しかし、気づいたことがあった。それが「アメリカで私はマイノリティーである」という自覚であった。大学祭の時、日本の大学でいう新歓のように様々なサークルや団体がイベントを催していた。日本でやっていたディベートや興味のあった映画のサークルにも参加してみたのだが、現地の学生の早い英語や知らない出来事に関してついていくのが精一杯だった。自分だけ未知のジャングルに飛び込んできたような居心地の悪さを感じた。かといって、日本人団体が大学にはあったのだが、アメリカに来てまで日本人の団体とつるみたくない、という変に高いプライドが当時はあったため、日本人の団体にも参加しなかった。スポーツも苦手だし、運動系のクラブは入りにくそう。となると、他に私が参加できそうなクラブはだんだんと限られてきて、中国系のダンスのクラブか、クリスチャンのクラブかといったところになった。
その時わたしは、もし自分が何かの宗教を信じていたり、中国など大きなコミュニティを海外にもつルーツを持っていたり、心から楽しめる趣味をもっていたりしたならばよかったのに!!!と本気で思った。
せっかく留学しにきたのに、人と関わらず引きこもって1年を終わらせたくない、と思った私は大学で催される様々なイベントに参加していった。
まず、私が後にメンター(キリスト教について教えてくれる人)と出会うことになったのも、参加したイベントの中での出来事だった。ワシントン大学に来てからすぐの2022年9月、英語でみんなと会話練習できる集まりをやってるよ、というウェブサイトかチラシを見つけて、英語の勉強になるなら、と思いイベントに参加した。クリスチャンの団体が行っているものとはつゆ知らず、である。
だんだんと参加するにつれて、この人たちがクリスチャンで主にアジア系の留学生を対象に布教活動を行っている団体に所属している人たちだということが分かってきた。
最初はキリスト教団体であるということを公表せずに接触するんだな、と感じたけれど、のちにその理由が分かるようになる。
そこから、サンクスギビングやクリスマスのイベントに徐々に参加するようになる。
このようなイベントに参加させてもらえることは、異文化を知る上で本当に貴重な体験だった。そもそも留学生が孤立することが多いという話はよく聞くが、私もそうだった.

そんな中でこの団体の人たちと関わることはとても居心地が良かったし、同時に私たち学生に無料でごはんを食べさせてくれたり、ホームパーティーに連れて行ってくれて、アメリカの習慣や文化についても色々と教えてくれた。
教えを広めようという目的が強く、信仰や改宗を強制させようとしている人たちではなかったのと、なぜ人は宗教を信じるのか?という自分のlife-long questionを解決したいと思い、関わっていくことを決める。


2どんな経験をしたか
上記のイベントに加え、様々なイベントに参加させて頂いた。

例えば、教会でミサに参加したときびっくりしたことがあった。それは、
厳粛に聖歌を歌うのではなく、ライブのようなノリでバンドと一緒に聖歌を歌うからである。小さいライブに行っているみたいだった。
また、毎週金曜日には、聖書の勉強会に参加し、course101という初歩の聖書学習を行った。私のメンターの方と、私、もう一人のお友達と3人で聖書に書いてある様々な出来事についてどう思ったかディスカッションした。
聖書の勉強会の際は、ただ聖書を読むだけでなく、ボードゲームをしたり
卓球をしたりして遊ぶこともあって楽しかった。

また、3月にはカリフォルニアに行き、3日間キャンプを行った。
体育館みたいな教会に行って、
朝から晩まで、聖書について講義形式で学んだり、
バンドのライブに参加しているように
聖歌を歌ったりした。
カリフォルニア滞在中は、
私のメンターの友達や知り合いの家に
ホームステイさせて頂いた。

ゴールデン•ゲート•ブリッジ
フルハウスのOPにでてくるやつ
Pier 39



3得られた学び

コミュニティ間の結束が強い
同じ宗派や教会に所属している人々は顔見知りで、
大学も同じだったか出身も知っているかで、
年上の人も年下の人も
シスター、ブラザーみたいな関係だった。
また、よく観察してみると、
夫婦になっている人々は皆
同じクリスチャンのグループの中からお相手を見つけ
結婚しているような印象を受けた。
(非常に合理的だと思う、なぜなら
宗教観や生活がマッチするし、お互いよく知っているし、
夫婦で協力して布教活動ができる)
また、数日間かかるキャンプでは、
他のクリスチャンのメンバーに自分の子供を預けて、キャンプに参加したり、
逆に他のクリスチャンのメンバーの子供を預かりながら聖書の勉強会を開いたりしていた。
そのように、共同体で一緒に子供を育てていこう
といった考えに触れることができた。


無償の愛
クリスチャンが実践している、無償の愛について
その考え方に触れるきっかけとなったエピソードを
2つご紹介したい。
エピソード1

ある時、日本人3人とメンター3人で話していた時、
日本のルッキズムが話題に上った。
ある子が、
「私はお母さんに協力してもらって、細くなるためにダイエットした!」と言うと、

その時メンターがこう言った。
「えええ、私だったら子供をありのままに愛するわよ。
その子は私の子供だっていうだけで、価値があるんだから。」

もし、同じことを日本人に話していたらどうだろう
「もう細いんだから、ダイエットやらなくていいでしょー」とか
そういった会話が予想されそう。
しかし、このメンターは神が無償の愛を注ぐように
相手にも接する、みたいな博愛主義を伝えようとしていたのかもしれない。
見返りを求めない愛を持つのは非常に困難だ。
どんな人にでも、どんな人に対してもできることではない。
しかし、相手が子どもの場合どうだろう?
親は子どもに愛されたくて、子供を愛すのだろうか?
何か見返りを求めて、愛すのだろうか?
期待せず、愛を与え続ける
そういったことが、子どもの教育において、
信頼関係の根源で大切だと思うので、
親子関係における愛についての考え方に対しては
素敵に思えた。


エピソード2
留学が終了する2ヶ月前、4月の上旬にコロナに感染してしまった。
最初、ベッドから起きたら、頭がふらつき
景色が回転しているような気がした。

寝足りないのかなと思ったが、急に肺に圧迫感を覚えた。これはやばいと思って検査キットを使うと陽性反応が出た。

寮の隔離部屋に移動して、安静にしていたが、食料や水がない。
困っていた時、私がコロナに感染してしまったことを聞いたメンターが、
なんと、りんご、ごはん、はちみつレモン・ジンジャーを作って
持ってきてくれた。

喉がサハラ砂漠になったんじゃないか、と思うぐらい乾燥して、痛くて
声が出せなかった時に、はちみつレモン・ジンジャーを飲んだことで
喉がうるおい、天国にいるような気分になった。
感謝してもしきれない。
実際に、自分がだれかが病気になった時にここまで助けることはできないかもしれない。
しかし、このように助けてもらったという経験は
私の心の中でずっと生き続けている。
恩返ししてもしきれないほど、そのほか色々と助けてくださったが、
いつかその恩を他の誰かに恩送りできればいいなと感じた。

実際に持ってきてくれたもの

洗脳するということとは?
「洗脳」と聞くと、やばいイメージを持つかもしれない。
どこかの部屋に隔離されて、一日中説教される、みたいな。

しかし、「洗脳」というのは徐々に行われていくんだな、と感じた。

そして、1つ大事なキーワードがあると思っていて
洗脳されている側は洗脳されていると気づかない
ということだ。


人は急に変わるのではなく、時間をかけて徐々に変わっていく。
クリスチャンの人々も寛大な方が多かったが、
そういった人たちと食事を囲んだり、
悩みを相談したり、
時間を共有したりすることで
徐々に人間関係を構築し、
共同体の一員として
組織に関わっていく。
そうやって、関わる人が変わっていくことで
いつのまにか考えが変わってしまっている
なんてことはある。
申し訳ないほど何かを得ると、
何かで恩を返したくなる。

私の場合は、敬虔なクリスチャンの方に色々と教えて頂いたが、
ものすごく分かっている人が教えるからいいってもんじゃない。
良く知っている人ほど、知らない人のつまづくポイントが分からない。
何か分からないことや疑いを持っていると、まだ十分その思想に浸りきっていない。
洗脳とは、わからないまま起こる。

人生の目的とは何か?

私の結論:誰かから与えられるものではない。自分で探せ。

クリスチャンの人々は、よくあなたの人生の目的は?と聞いてきた。
齢20数年にそんな事を聞かれても、、と思った。
彼らは神に一生を捧げている、と言っていた。
人生の目的は彼で、彼の生きたように自分たちも生きるのだと。
私自身、受け入れることはできない。しかし、実際に彼らと関わってみて、
彼らの言いたいことがなんとなく分かるようになった。
要するに、彼らにとって、キリスト教は心の支えであり、自分たちの目指すところ、
生き方、考え方に神という概念が根本的にある。

よく、何かの指南書をバイブルと呼ぶが、聖書は彼らの人生をガイドするものであって、
そこに人生のエッセンスが詰まっている、と考えてもいい。

私は受け入れられない。しかし、そうやって生きている人もいるということへの
偏見が少し薄れた気がする。なぜか。

私は、宗教を熱心に信じる人は少し心が弱い人だと思っていた。
そうやって何かを頼ろうとしてしまうのは精神的な弱さだと思っていた。

しかし、私はこの人々との交流や留学全体の経験を通して、
「人間は本質的に弱い。その弱さを受け入れて、自分を大切にできる人こそ
 人間的に強い人なんじゃないか」
と感じた。

自己肯定感を高めること、強みも弱みも受け入れて、自己を見つめなおすこと。
何かしら大きな存在から、精神的な安定感を得ること。

別にそれは、宗教を信じることができれば、簡単かもしれないが、宗教を通してでなくても可能である。要は、どのようにしたら自分を信じれるか(自信をもてるか)考えて、実践ということなのかな、と感じている。

世の中は不条理がまかり通っているし、予測不能な事態も起こる。
自分がコントロールできる事以外の出来事の方がコントロールできることより多い。
それを、神がやったと思うのか。世の中そういう風になってるんだと思うのか。
それは個人の自由だと思う。

以前、他のクリスチャンの中国人の学生が、私たちに
彼女が主催したイベントがトラブル続きで、そのトラブルを乗り越えるのに
苦労した、という話をした。
その時彼女はこう言った。
神様が私を使って、みんなの為になるように、働きかけてくださったの」と。
私は、声を大にして言いたかった。
お前が頑張ったんだよ!
と。

話がちょっと脱線してしまった。
人生の目的について。
元々、目的を持って、人は生まれたわけではない。
人生なんて、極端にいえば、死ぬまでの暇つぶしである。
しかし、辛い中でも苦しい中でも、何か目的をもって生きていくことができれば
楽しいと思える時も来るだろう。
目的なんて何でもいいんじゃないか。
もし、それで神様が目的であると言うんならば、
それが彼らを幸せにするんならば、
宗教はその1つの役割(人を幸福にする考え方を提供する)を果たしている
といえるかもしれない。

宗教は、何もないと思っていた人生にも「人生には意味があるんだ」という事を、そう言える自信を、つけてくれるものかもしれない。

宗教観はインド人との方が分かり合えることが多かった

これは超個人的な意見だ。インドにも色々な宗教の人がいるが、
私が多く接していた北インドの人々とは、私の持っている世界の考え方がちょっと
似ていた。
「カルマ」とか言ったら通じたし、罰が当たるとか、涅槃とか、
そういった仏教的な考え方を逆に少し教えてもらった(彼らは決して仏教徒ではない)
おそらく、そういう考え方を表す表現が、むこうの言葉にあるんだろうか。
そこらへんは、ちょっとわからない。

しかし、英語の表現には、キリスト教的な意味を含む言葉が多く存在する。
要は、言語と文化は切って切り離せない、ということである。
英語とキリスト教の関係について興味深い記事を見つけたので、
参考に貼っておく。


まとめ
ここまで、お話してきた中で
宗教とは何か?
ということを改めてまとめたい。
留学に行く前までは、宗教というものは何かイベントに参加したり、お寺や教会に行ったりして
初めて実践されるものだと思っていた。

しかし、熱心なクリスチャンの人々と実際に交流したことで、

「宗教とはその人でありその人の生き方であり、
もっと精神的に依存していて、
もっと生活に密接している
人の集まり」

だということが分かった。

宗教は人がどう生きるかに大きく影響する、ということを身をもって感じた。
彼らは、平日は働き、平日の夜は聖書の勉強会などを開く。
そして、休日は教会に行きミサに参加したり、
クリスチャン団体のボランティアに行ったりする。
生活の殆どがキリスト教を中心に回っていた。
宗教は心の支えになっている、
宗教とは、人が心のよりどころにできる何かを与えてくれるものだと。
そういう考えもあるんだと、感じた。
メンターも、
私はクリスチャンになるまで自分は死ぬのが怖かったけれど、
クリスチャンになってから怖くなくなったの。
とおっしゃっていた。
(罪を持ったという意識のもと)悪い所も含めてありのままの自分を受け入れる、自己肯定感を与えてくれた、という人もいた。
宗教の教えが規律的で、organizedな社会を作るという人もいた。
では、考え方と宗教の違いってなんなんだろう。
政治団体と宗教団体の違い、同じ考えの人が集まる団体と宗教団体の違い。

あまり、ここは考えが深まっていない。しかし、
「個人の主体や個人の意思決定を握る中核が個人にあるか個人以外の何物かにあるか」
の違いなのかもしれないと考えている。

宗教の排他性
クリスチャンの人々はよく、
イスラム教、ヒンドゥー教、仏教
こういった宗教はすべて偽物だ、腐敗している宗教だ、と私たちに言った。
その後、なぜキリスト教だけが正当な宗教であるのかについて、
長い説明を受けた。(史実がある?とかそういった話だが、殆ど忘れてしまった)

私はそういう考え方が嫌いだった。
他の人々が実践している宗教や文化にリスペクトがない、と感じたから。
そういう差別や見下した感じみたいなものが、社会的分断や宗教戦争に結びついているんじゃないか、と思った。
どうして、皆、共存できないんだろう、とか感じていた。

宗教的価値観の対立もあった。
私は「無神論者」と言ったが、完全に神のいないワールドに生きていると思っているのか、
と言われるとそうではない。
神社にも行くし、仏様も拝むし、お寺にも行く。
でも宗教を信じているのか、と聞かれたら返答に困る。

なんでそうなのか、自分でもわからなかったが、メンターと会話したことで
知ることになる。
メンターがある日、私に
「神様がいると思う?」と言われた。
どこかにいるんじゃないかと思う、と言うと、
「じゃああなたはキリスト教を信じているの?」と言われた。

私がその時1つ気づいたことがある。それは
クリスチャンのなかで、神様がいるというのと宗教を信じているというのは同義なんだと。
そして、神様はいるかもしれない、という感覚は彼らにとって全く理解不能であるということ。

彼らにとって、私のような無神論者は、
不条理な世の中で人生の目的を探している、迷える子羊であり、
腐敗している宗教を信じていて間違った道を進んでいる人だった。
最後の最後に地獄から救いたいのよ!と少し脅された。

でも、私は変わらなかった。変われなかった。
キリスト教を学べば学ぶほど、自分の生き方や考え方と違うと感じたから。

あるメンターさんは、キリスト教徒になれたことは自分の特権であると言っていた。
自分の母国に帰って、教えを広めたいと意気込んでいた。

こういう強い使命感を抱かせるもの
人を結びつけるもの。
人を信じ込ませるもの。
人の一生を変えてしまうもの。

宗教の力というのは、想像以上に大きくパワフルだった。
つかみどころが無かった。
その力の大きさに、少し恐怖や狂気さえ感じた。

どんな人がメンターだったのか?

アメリカの有名大卒、大手企業勤務の超エリート集団だった
(頭めちゃくちゃ賢い人たち)
こんなに学歴も、良い仕事も、社会的地位もあって、なんでこの人たちは
キリスト教に改宗したのだろう?(大学時代)
というのが、私の大きな疑問だった。

実際に関わってみて、メンターたちはすごく真面目に生きてきた人たちなんだな、
と思った。
そして、疑問に対する答えとして、私が見出したのはやはり
神という人生の目標、自分の居場所であるコミュニティの存在
これに尽きるのでは、と思う。

前出のキャンプに行った際、衝撃的だったのが、
メンターたちが口をそろえて
「学業や仕事の成果を、自分の生きていく目標にしたら良くないよ」
と言うことであった。
それは人生で大切なことではない。仕事は解雇される可能性だってある。
成績は落ちる可能性だってある。そんなことより、もっと大切なことがある。

といった事だった。無論、彼らは神のことを指しているのであろうが、
私はまた別の意味で解釈した。
成績が良くないから、仕事ができないから、ということで自己肯定感を無くす必要なんてない、ってことなんじゃないかなと。

確かに、何か問題が起これば、学業や仕事といった目標は見失われてしまう。それで自殺したり、病んでしまったりする人もいる。

人生の目的なんて分からないが、
このように仕事や学業が絶対じゃないといった
マインドセットを持っておくことが、
いつか自分だけでなく誰かを助けるために、使えるんじゃないか
と思って、頭の中の引き出しにそっとしまっておいた。

〇Pro-life、反LGBTQなどについて
私が関わった人たちは、こういった「中絶反対」「LGBTQ反対」といった
思想を押し付けてこなかったし、実際どういった立場だったのか
知る由もなかった。しかし、このような思想を持っている人に
クリスチャンの人である傾向があるように感じる。
(なぜなら、教義にのっとった考え方をしているから)

実際、キャンパスの中でもpro-life、中絶反対、LGBTQ断固反対といった
極右の人々がレクチャーをしに来ることもあった。大学関係者ではなく、外部の人間だったが。

私がシアトルを訪れた時、ワシントン州は中絶が合法であったが
他の州では違法である所もあった。
そういった法律に反対している人がデモを行ったり、プラカードを持ったり
している所も見たことがある。
しかし、一方で人通りの多い交差点で聖書をマイクで読み上げている人もいた。いろんな人がいる、それがアメリカなんだなと感じた。


注意したほうがいいと思ったこと
簡潔に申し上げると、
「執拗に関わろうとしてきたら逃げること」
電話番号や名前を聞いてくることもあります。
私は、断っても聞いてくるような方々にはランダムな番号を書いておいたり、偽名を使ったりして、やり過ごすなどしました。
私が今回関わった団体もそうですが、最初宗教がベースになっている団体であるかどうか
を公にせずに関わってくることもあれば、キリスト教の団体であることを大体的に出して
関わってくることもある。
その人々がどんな人なのか見極めて、直感的にやばそうだと思ったら、ひとまずのらりくらりとやり過ごして逃げる。
こういうときの直感は多分正しい。


結論

クリスチャンの方と交流したことは、人生の中でかけがえのない貴重な体験になった。
宗教の違う人とのコミュニケーションで気を付ければならない事を学んだり、今まで持っていた偏見などを少し解消できたように思う。
人の生き方、生き様はそれぞれあって、
自分の生き方と違う人の生き方を間近で感じることができた。
私はキリスト教を受け入れることができなかったが、
クリスチャンの人々が私にくれた優しさは一生忘れることはないだろう。
その感謝の意味もこめて、ここで筆を置こうと思う。



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