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強迫観念と空虚感

皆さんは、「年下」「同年代」「年上」であれば、この年代の方と話すときが楽!みたいな感覚ってありますか?

私は圧倒的に年上の方が話しやすいタイプで、だからといって年下が完全に無理というわけでもないんですけど、一つ二つ年下くらいだと、うまく行かないことが多くない?と感じることが割りかし多いと、近年になって気が付きました。

とはいえ、私に懐いてくれていた、年齢が一回りは違う子たちと遊ぶことは好きでした。

頼ってくれたり、「遊ぼう」と楽しげに近づいてきてくれる姿、頑張りを褒めてあげるとさらに伸びる純粋さに素直な感情表現。それを見て、私も癒やされるような時間が好きでした。

けれど、小中学校生活で同年代と過ごす時は、いつもなにかとうまく行かない…

そもそも、どんな会話をしていたかをあまり思い出せない部分もあったりして、今振り返ってみると、当時は「会話」以前の問題があったなという具合。

自己肯定感やら障害に関する認知の歪みやらで、無意識に被害者ポジションにいてしまっていたり、空回りしていたり、障害関連に必死で、うまくクラスメイトたちと関われていなかったようなイメージです。

そんな私が通信制高校に進学したある時、
親戚の家に泊まり、東京というなかなか来れない場所で友人と遊び、夜は親戚に連れられとあるお店で五、六〇代の方々と談笑をする日があったんです。私が年上の方と話すほうが楽なんだと気がついたのも、ここでした。


年上の方々と話していく中で何度も言われた言葉は「よく俺達みたいなジジババと喋りが続くね?まして酔っ払ってるから面倒じゃない?」という旨で、

私にとっては面倒と思うどころか、楽しく有意義なもので、本心から「いえいえ、そんなことないです。楽しいです」と伝えていたわけなんですが、

その後もその方の職業についてや私の好きなことについてしばらく話が続いた頃、親戚含めた多くの大人が「この子すごいね」と褒めてくださりまして。

その結果「今の自分は学校生活に比べて断然自分のことを話せてるし、相手も楽しいと言ってくれている…つまり私は年上の方と話すほうがやりやすい!」という法則が立ち上がりました。

普通その年でこんな話できないよといろんな方がとにかく褒めてくださり、嬉しい気持ちはもちろんあった反面、最近それを振り返っては「それは大人方が私に合わせてくれていたからこそのもので、自分は大人に甘えてしまっていたのでは」と言う気持ちが出てきて、少しメンタル的にふわふわした日が続いております。







私は本当に、自分の好きなことでしか会話ができないんです。

仮に、話題が相手方の職業についてになったとします。そして私がそれについて行けることを褒めてくださるわけですが、

それは私の能力というよりも、
その方の職業が、私が興味関心を持っているものだったために、あれこれ質問してみたり相槌を打てていただけであり、そんな私の反応を、お相手も楽しんでくださった…というだけ。

だから、今のこのことを振り返っている私からしてみると、全くもって、私の能力ではないという結論に至ったわけです。

私の興味関心を持っている話というのは、映画についてやドラマについて、そしてそこから出会ったその他諸々。

お相手はニコニコと聞いてくださいましたが、
内容によっては、本当に(当時)一八歳か?と疑われるほどのジャンルだったようで。

そんな私の話を酒のつまみにニコニコと聞いてくださっている…そして、聞いてくれるからこそもっとのびのびと話ができる。

そのループを褒められたことが嬉しいことは事実ですが、いざ相手が変わって同年代となれば勝手が違って当たり前なので、

同年代とうまく行きにくい私は、

いつだって大人に甘えてコミュニケーションをしていることは言わずもがな、

私のコミュニケーションは、内容が偏っている事も含めて、同年代とはいつも何かがずれているのではないかという気持ちに駆られています。

私はもうすぐ二〇代に突入する女子ではありますが、おしゃれにもメイクにもさほど関心がないので、見た目に対して無頓着です。

幼少期にみんなが通るような、仮面ライダーやプリキュアにも特に興味はなく、それらで言うのであれば、まめゴマやマメしばを好み、日曜の朝からやっている大人気アニメのワンピースでさえ、家族が見ていたから、そこに自分がいると言うだけの感覚で、能動的に、何かを好きになることが少なかったです。
たまごっちや妖怪ウォッチ、そういうものは好きでよく遊んでいましたが。

流行の音楽やドラマも、お勧めされるほど逆張りしてしまうタイプだったし、クラス復帰をしてからの中学のお昼休みにみんなが話しているドラマの話も、当時はほとんど興味が持てなかった。

仮に知っているものであったとしても、
私はうまく輪に入れなかったんです。

輪に入れないと言う時点で、私は多分コミュニケーション能力がないとも言えるでしょう。

となってくると、大人だらけの世界でうまく会話ができるのは、大人が合わせてくれているからに過ぎないんだなと思ってしまうわけです。


育ってきた環境が違えば合う合わないはあると思うし、人には適材適所があることも、理解はしています。

ただ、あの時の自分は他のことに必死で、あのタイミングで培うべきだったコミュニケーション能力を培えていない部分がある…
もしくは登校しないことでそこを避けていた、と言う部分があったのかもしれないとも推測しています。

そしてその欠落感および劣等感にも似た感情がどことなく自分を焦らせてしまっていることも、なんとなく感じています。

全部をひっくるめて、自分の中で「今自分は間違えている」というような感覚に襲われてしまっているんです。

なぜだか、小さな頃や家のほうにフォーカスすると、途端に自分が空っぽになったような気がして、落ち着かない気持ちにもなります。


この「適材適所」という理論に納得できず、
幼い自分や自分のコミュニケーション能力を弾圧しつつ、自分の中の普通や正しさにこだわる感じは、もはや私にとって強迫観念のようなもの。

この強迫観念は一体どこから来るのやら…
自分自身の感情感覚を意識できるようになってから、少しずつ前向きに生きられるようにはなったけれど、次から次に問題が出てきては正しさを求めて右往左往。

ここまでお話しした通り、
正しさを求める割に、自分で自分を信じることができなくて、いつもどこかで「自分は間違っているんじゃないか」と怯えている人間です。

親戚の人は、私をしっかりしているとか大人びていると評価してくれるけれど、自分の中にこんな風に「もっと子供の自分」がいることをわかっているから、

そこにギャップが生じることで「もっと大人にならなきゃ」と色々考えては見るものの、
子供の自分の根源をうまく解消できず、自分の燃費を悪くして、度々エネルギー切れを起こします。

エネルギー切れの果てにあるのはいつもこんな虚無。

「なんで自分はうまくできないのだろう」と思考の波に飲まれてしまい、不安になり、不安だから、理由もない安心感を求めてしまって、

そう求めてしまうことが自分の子供っぽさであるとも感じるので、自立できない自分に更に自己嫌悪。というよくないループによく頭を蹂躙されてます。

もっと柔軟に、そんな日もあるよね とか
過去の日々の影響があるのかもしれない、もっと受け入れてあげよう とか出来たらいいんですけど、

過去の自分を抱きしめてあげることも今の私にはできなくて、外側へ外側へと安心感を求めてしまいます。

もっと自分が大人じゃなきゃだめ や、
自分でさえも曖昧な、漠然とした正しくないとだめ。

役に立たなきゃだめ
しっかりしていなきゃだめ

この数年でいろんな「こうじゃなきゃだめ」に気がついて、中にはほぐれた物もありますが、

自分でも、なんでこんなに「こうでなきゃだめ」が多いんだろうとうんざりします。

こういう感覚が無意識にストレスとなって、結果的に安心感を求めているんだと、
こう執筆をしている今、なんとなく理解しました。

加えて、こういう「こうじゃなきゃだめ」で最も怖いのが、本来自分の中にあるはずの概念を、人に押し付けてしまうことです。

今思えば、小中学生の頃は特に、
自分の中のこうじゃなきゃだめを人に押し付けてしまっていたときがあったなと思うんです。

自分の中でこうあるべきと思うところを指摘することで、自分を棚に上げて自分から逃げていた部分もあったと今なら思えど、

昔に「人のことは気にせずに自分のことをやりなさいと叱ってもらった」ときは、その意味に気づけませんでした。

それによってその人を傷つけてしまっていただろうなと思うと、何年も経った今でも自己嫌悪と後悔の念に駆られます。

そういう記憶があるから、より「こうじゃなきゃダメ」に繋がっているところはあると思いつつも、なかなか難しいです。

自分で作り上げたものなのか、育っていく中で植え付けられたものなのかもわからないですしね。


自覚的にも、無意識的にも、いろんなこうじゃなきゃだめが自分の中にあって、先ほどの経験、気づきから、

人に押し付けないようにしようと気をつけられるようにはなったけど、

自分の中に脅迫的にある以上、私の中の「こうじゃなきゃだめ」から抜け出して行動している子を見ると、どうしてもモヤっとしてしまったり、
そうできることを羨望したりしてうまく生きられない時間もあったりと、

割と、この脅迫観念には苦しめられてます。

どんな感情が私をそうさせているのか、
人にこうじゃなきゃダメを押し付けていた時も含めて、その脅迫観念の裏には一体自分のどんな感情があるのか…まだ、そこがうまく自分では掴めません。


学問に対して、大人の学び直しという言葉がありますよね。

それと同じように、
おそらく自分は、両親が離婚したあとからここ数年で、無意識に外側に向けていた意識を自分の感情感覚に向けられるようになりつつあって、

即ち、ここ数年が人生の生き直しみたいなものなんだろうなという気がします。

振り返れば振り返るほど、
これまでが空虚で、その空虚なものを自分で埋めようと、今…必死になってるなって言う気持ちもあったりします。

つくづく自分は、不器用というかなんというか。

難解な人生ではありますが、少なくとも今の自分は、こういう風にもがく人生であることも、
一つの物語として、自分が大好きな映画を見るようなマインドで、楽しんでいこうと思います。

そんなこんなで、今回は、いつもより少しはちゃめちゃな話になってしまったかもしれませんが、自己理解を深める手助け、その振り返りとして、ここに記録を残させていただきました。

ここまで読んでくださった方、ありがとうございました。

ではまた。

ご縁がありましたら、またいつか、
私の言葉を拾ってやってください。

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