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「辛くない」は大嘘だけど①〜障害を持っている私に父は〜


3つ目の記事にて、私に関するいくつかを「別の機会に」とお話したのですが「結構長くなりそうだなぁ」と思いまして、早いけど、もうさっそくそれらのお話を始めていけたらと思った感じです。

要は、ある意味でのプロフィールのようなものですね。

シリーズ物として、多くても5000字程度のものでいくつかに分けて制作したほうが、それぞれがサクッと読めていいかなぁと思いますので、ぼちぼちと心の健康を気をつけながら、複数話の構成にしようと思います。ふへ(ごまかしの笑い)

しかし、結構デリケートとでもいいましょうか、暗いお話も中には含まれますので、私は元気で明るい記事を見たいんだ!という方はこちらからスーッとブラウザバックしていただいて、他の素敵な記事をご覧ください。


前回の記事はこちら


まずはじめに、順番的に都合がいいので

どうして私が「父親に嫌われている」ということを事実だとお話したのかについてから行きましょうかね。

ポイントごとに見やすいよう、大見出しをふんだんに使っていきますよぉーっ。

私に下されたとある診断と父の言葉

私が生まれたのは、2004年。
つまり私は19歳ということさり気なくおいておきます。

オギャーと生まれた私は未熟児で、長らくを保育器の中で過ごしていたそうな。もちろん全く記憶なんてないけど。

そして保育器を卒業し、母とともに退院する頃、私には「脳性麻痺」の診断が下されたそう。
(もっと厳密(?)な名前としては、脳室周囲軟化症ということを母から聞きました。)

そんな私を知った父はこう言ったそうです。

「どうして俺の子供が障害者なんだ」

「こう言っていた」と聞いた話も、後に登場しますが「いや、そんなこと知るか。好きでこちとら障害者をやってる記憶なんざねぇよ!!!」と今なら言いたい。

私の中にある父との記憶というのはあまりいいものではなく、かと言って「物理的な暴力」があったかというとそうではなく。

リハビリをする中で必要となってくる「PCW」と呼ばれる歩行器や「ロフストランドクラッチ」など、その他足に装置する装具も含め、そういったものを買うお金は出してくれるし、もちろん学費だって出し続けてくれていたので、最低限の生活は保証されていました。

それでも私が「父に嫌われているんだ」と思っていた理由は、圧倒的な姉妹間での対応の差


前回の記事でもちらりとお話していますが、
私が宿題を終わらせてゲームをしていれば「目が悪くなる」を言われるのは当たり前。

家の中を転けずに歩くため、壁に手をついて歩いていたら「お前が手をつくから壁が汚れるんだ」と繰り返し言われたり、外を歩いているとき、私の歩き方を真似て「こんな歩き方だ」と大爆笑。

障害の影響なのか、はっきりと理解していないのでなんとも言えませんが、幼い頃から持っている「外斜視」を、ロンパリだと繰り返し揶揄われたこともあります。

父とはこんなことばかりで、まともな会話をした記憶はほとんどありません。

言わずもがな、叱られる内容のすべて、全く持って私に非が無いというわけではないけれど、揶揄いも含め、そういった言葉をかけられる回数が、私だけ圧倒的でした。

「お姉ちゃんのほうがいつもスマホを見てるのに、なんで私にばっかり」とか

「歩き方を笑われたって、どうにもできないだけなのに」と、必死になって泣きそうなのをこらえていました。

ゲームばかりと怒られるなら「何か手伝おうか」と声をかけても「お前はいい」と言われてしまう始末。

父はもともと単身赴任を繰り返していたため、会うのは年に1度程度でしたが、父が帰ってきている間、私は基本的に自分の部屋で静かにしていることのほうが多かったと思います。

そんな私と父の関係性故、幼いながらに「あぁ、私のことが嫌いなんだ」と察しがついた感じです。

母方の祖母はそういう現状を知らず、父のことを言い淀む私に、いつもこう言いました。

「確かにパパはそういうことするかもしれないけどね、(私)が可愛いからわざとそういうことを言ってるんだよ。本当に嫌いだったら病院のお金も出してくれないでしょう?大切な家族なんだから、ちゃんと感謝したりしなきゃだめよ」

幼い私は、ただおとなしく「うん」と受け流していましたが、今となっては「ほら見ろ」って感じさえします。えへ。

意地悪な言い方をすれば「たちが悪い」と言いますか、はっきりと「お前が嫌いだ!」というわけでもなく、息継ぎはさせてくれるのにまたすぐ沈められているような、チクチクした痛みを繰り返し受けてきたわけです。

ゾンビ化のはじまり、両親の離婚

なぜ、はっきりと明言して来ない父の「なんで俺の子供が」発言を知れたかと言いますと、事の発端は、父が単身赴任から家に帰省してこなくなって5.6年だった頃のお話。

当時はほんとに必死だったためか、今でもこの頃からの記憶は曖昧のため、その点はご容赦を。

普段から一人で家にいることが多い私ですが、その日は母が誰かと電話をしながら某ハンバーガー店のテイクアウトを抱えて帰宅しました。

ガラリと私の部屋を開けた母が一言
ねぇ、離婚することになったらどうする?」と言いました。

瞬間、小学2年生ぐらいの頃の、当時は確か「父方の祖父母の介護の件で、父方の実家へ身を寄せるか否かで意見が割れてる」というものかなにかで「離婚するってなったらどっちについていきたい?」と言われたような記憶が蘇りました。

普通に考えて、直前までいつもどおりの日常を送っていた人間からしてみれば、あまりに脈絡がない…。

「…どうするもなにも」と、混乱する頭を押さえつけようと頑張りながらテイクアウト商品を食べつつ、「私に拒否権なんてないじゃん」と言い返しました。(それは小学生の頃も思っていた)

その後の母との会話はほぼ覚えておらず、以降の覚えていることといえば、友人たちへ「ねぇ、離婚することになったわw」とラインしたりしながら、押さえつけ切らない様々な感情をそのままに、お風呂へ逃げて、シャワーの中で気づけば大号泣していたこと。

「こちとら受験だってあるんだぞ!あんた(母)は仕事はまだしもいつも用事で外にばっか行って居ないからなかなか相談もできないし、受験の知識何もない中一人で必死にやってんのに!」と、受験へのストレスや母への不満等々、いろんなストレス感情が爆発して、もう自分でもわけがわからなかったんだと思います。

それが一段落して思い至ったことは
「(私)も中学卒業するし」という母の発言も相まって「自分のせいなのだろうか」ということでした。

「姉はちょうど良さげな関係性を取れてるのに、私が嫌われているせいで、障害を持っているせいでこんなことになったの?」と自分を恨んだり、「嫌われてたとしても、そう産んだのはあんただろ!」と理不尽に父を恨んだりしていました。

何度も自分の足を殴りながら、シャワーに打たれて涙をごまかして、最後に家族が揃った日のことを思い出しては「これは本当だったのか、それとも嘘?」と一人で確認するように振り返っていました。

そんなことをするくらいには、当時の私は「自分が父に嫌われていてもいいから、家族みんなには仲良くいてほしかった」と思っていたらしい…と、今だからこそ受け入れられる自分の本心でございます。

そんな当時の私が送った「離婚することになった」というメッセージはとても爆弾だったそうで、当時を見ていた友人からは「学校に携帯持ち込んじゃいけないのに心配で持ち込んでたんだから」と、今でも笑い話としてよく話題に出されます(誠に申し訳ありません(これ見ないけど))

それでも日常は回り続けて聞いた言葉

そんなこんなで離婚が確定し、私自身、進路など色々変更があったのですが、それは今回はポイッ!また別の回でお話予定。

うちの方ではマンションも引っ越さなきゃいけない等々いろいろドタバタ動いて行く中、母の友人さんとご飯に行く機会が設けられ、私はそれについていきました。

随分心に折り合いをつけた私からしてみれば、母と外食に行けることや、楽しそうな母を見れることがまず嬉しく、ウキウキとした気持ちで同行しておりました。へっ。

そして、母はやはりその方へ家族関係も相談していたらしく、離婚についての話も出てきました。

母とご友人が何を話していたのか、今なってはもう覚えていないものの、何かの流れで「(私)はそれでいいの?」と、ご友人が私に尋ねてくれました。

私はまたも「だって拒否権なんてないでしょ」と言う気持ちが逸り、気がつけば、投げ出すように「だって私のこと嫌いだし」と言っていた感じ。

そんな私の発言に、ご友人は一度驚いた様子で、母へと「本当?」と聞き、その時頷いた母の口から出たのは

「だって、この人(私)が生まれたとき、なんで俺の子供が障害者なんだって言ったからね」

という、のこの言葉でした。

瞬間、正直今となっては心で何かがピキッと割れた音がしたような気がしますが、その時の私は笑って「ほら。」といったことを覚えています。我ながらよくやったものだ…。

かくして私の中で「父に嫌われている」ということが確信に変わりました。

もちろん、母から聞いた言葉ですし、母の解釈がまじり、多少の湾曲がないとは言い切れない。

けれど、あのときたしかに母の口から出たのはその言葉でした。

当時含めて考えてから約もう5年、この数字はけして小さなものではないし、楽なものでもなかったけれど、それだけの時間を経て整理がついた今だからこそ…こうして何かに書き残すことで、今一度自分がこれらと向き合うことができるし、消化することもできるのではと感じて、今こうして打っているわけです。

そしてこれはまた別の回でお話しようと思ってますが、5年のうちの後半から「ひたすら父イヤだァァァ」っていう時期を過ぎ、私は心理学などにも興味があったこともあり、父が本当の意味でどう思っていたのか、どうしてこんな対応だったのかなどを、心理学をいろいろ調べていく中で探るようになりました。

そうやって探ったからこそついた整理はもちろんあるし、なんとなく「まぁ仕方ないか」という悟りにも近い感覚を覚えました。

終わりに

初回からなんとも重い話になってしまったんですが、これから書き残していくのはこういったお話が多く含まれることと思われますので、ご拝読いただける際は、何卒ご了承のほど、よろしくお願いします。

もちろん、今回は何かと辛かった過去を書き記していますが、両親の離婚後、這い上がる間に私が味わった時間はけしてこんなものばかりではありません。

死にかけの私を支えてくれたいろんなもののお話もここでしたいと思っておりますので、もしもこんな私のお話に興味がある方がいるのであれば、最後までお付き合いいただけると幸いです。


次回は、両親つながりで「母と交わした障害についてのお話」にフォーカスを当てて書いていこうと思っています(適宜変更の可能性はあり)

(と言いつつ、ずっとこんな過去達を振り返っていたらメンタル的に疲れてしまいますから、今シリーズは関係ないお話も中には挟みますけどね!)

ではまた。

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