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「哀愁の町に霧が降るのだ」を読んで、東京の東の端で思ったこと

土曜日、九月十一日に椎名誠「哀愁の町に霧が降るのだ」を読了した。青春の話であった。一番好きなのは以下の箇所。克美荘日記の木村晋介の書いた部分である。

四月二七日 夕方四時頃、私は中川放水路のあたりに散歩に出た。灰色の色彩がこの川の堤を支配し、河原の草や木をはぐくんだ太陽はなんの影も落とすことができず、先日、上田君と来た時のようにキラキラと光る川面や数万の葦の踊りを見ることはできなかったが、四月の夕暮れのやわらかい薫りを含んだ気遣いさえあれば、落日の逍遥に文句をつけるすべはなかった。風はこの河原の数え切れぬ葦の葉をこすり合わせ、小学校の下校時間を告げる童謡をなんの関わりもない風下の家々にまで丁寧に伝えていた。私はこの川に幾重にも連なる橋橋のたもとを渡り、そしていつしか心の中で草や木の命の唄のようなものを口ずさんでいた。

70年代、当時の木村青年はおそらく22歳くらいだろうか。弁護士になるために、克美荘(という小岩の古いアパートの、狭い六畳部屋での男4人共同生活)に毎日こもって勉強をしていた。昼間、仲間が学校なり、仕事・アルバイトに出かけている間に勉強をして、夕方になると仲間のために夕飯をつくって待っている。そんな当時に書いた文章である。

埼玉の実家に飾ってあった絵葉書を思い出していた。おそらく、姉が学校の図工の授業で描いたものである。当時の姉が中学三年生だから、私は10歳くらいであったかと思う。バスケットボールとバスケットボールシューズの絵と、”みんながいたから自分も頑張れたんだと思う”と書いてあった。なぜだかわからないが、それを今でも覚えている。

翌日の日曜日、九月十二日は自転車で柴又帝釈天に行ってきた。かねてから、妻が行ってみたいと言っていたことと、哀愁の町、というか東京の東の果てに行ってこようと思ったからである。

浅草から柴又までは自転車で一時間弱であった。隅田川、荒川、中川を超えて、江戸川の手前に柴又はある。江戸川を越えればそこはもう千葉である。

柴又に来るのはこれで三回目であった。最初は中学生のころ。二回目は大学生になって、「男はつらいよ」を見て再びやってきた。そうして今回が三回目であった。

最初と二回目に来た時は、帝釈天にお参りはしたものの中庭と彫刻堂に入ることはしなかった。今回初めて、そこに入った。たぶん、一人であったらやり過ごしていただろうと思う。連れと一緒であったから入ってみようかと思ったのだと思う。して、入ってみるとそこは思った以上に善き場所であった。

何より静かである。中庭を見て回って、彫刻堂に入った時にお経が始まった。それまでの静寂の隙間を埋めるかのようにお経が響く。奇妙に心落ち着かせる音である。

本堂でお参りをしてから、参道に戻り、目についた茶屋で天丼を食べる。天丼 上 1,620円。大きな海老が二尾乗っていた。

食べ終えて、草団子を持ち帰りで購入し、駅の方まで来た。ざっと一回りしてから自転車で江戸川の土手に上る。一回目に来た時はここを南に下っていった。二回目の時はここで一人煙草を吸った。たぶん、年末の寒い時期であった。だから、ここからの景色もよく覚えていた。何もあの頃と変わっていないように思う。

大学生の時に初めて見た「男はつらいよ」のレビューがあったのでここに引用してみる。ちなみに、これは二回目の柴又の前である。

「男はつらいよ 寅次郎夕焼け小焼け」
いつか父と二人、柴又帝釈天にお参りに行ったことを思い出しながら観ていた。その頃私は小学生か中学生、埼玉から自転車で3時間かけて江戸川を下っていたのだ。帝釈天参道の団子屋で休憩をしたときに、父が寅さんの話をしていた。その頃の私はアクション映画が大好きで、こんな映画なんて見向きしなかった。ただその団子屋のあんこがとっても甘くて美味しかったことをよく覚えている。

それから何年も経って、私は今でも映画が好きで、ふと「寅さんを観てみたい」と思うようになった。そのきっかけが何だったのかは思い出せない。〈次に観たい映画リスト〉に寅さんを書いたのはたぶん1年程前だろう。それでもやはり他の映画に興味が惹かれ、リストの寅さんにはずっとチェックマークが書かれないままであった。

初めて観る寅さんはとっても粋で、本当に不器用な人であった。でもそんなところに周りの人間たちは惹かれている。それは観客である私たちも同じだと思う。

映画に出てくる日本の風景はどこを切っても美しく、描かれる人間は全員が全員魅力的である。どこまでも人間的なのだ。

高倉健の「駅」で観たとき、倍賞千恵子が本当に綺麗だと思った。この映画でも、変わらず綺麗であった。

もっと色んな人に観てほしい。この映画を観て「ああ、なんか良いわね、こういうのも」って言える女と一緒になりたい、とか思った。以上。


こうして改て読んでみると、とても若い文章であると思う。それはそうだろう、あのころはまだ大学生で、いろいろを知る前、諦める前であった。そういう時にしかできない表現というのはあるのだ。

以下、備忘のため「哀愁の町に霧が降るのだ」の解説からの引用。この解説を読んで、椎名誠をGoogle画像検索して、なんというか、椎名誠は信頼できる作家だと思った。

・椎名誠「哀愁の町に霧が降るのだ」
体躯が強い男は、一見うじうじしており、アホづらをし、内向して恥ずかしがり、ときにはめめしくもあるが、一皮むくと無頼漢となる。抒情的で哀しいのだが、その核に暴力がある。その逆は、たとえば三島由紀夫のように、意志が強い、小さい体躯の作家である。簡単に言えば、ケンカが強い男は弱ぶり、ケンカが弱いのは強ぶるのだ。表現は、劣等感が水分だからこうなるのだが、大男文芸の系譜は西行・芭蕉がその一例である。西行も芭蕉も、もとは屈強な武士である。


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