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「コインロッカー・ベイビーズ」 レビュー

二週間くらい前に村上龍「コインロッカー・ベイビーズ」を読み終えた。


・村上龍「コインロッカー・ベイビーズ」

自宅の本棚からこれを取り出して読み始める。

前に読んだのはいつ頃だろうか。おそらく、高校二年生くらいの時だったかと思う。

このところ、前に読んだ本を読み返すことが増えた。前までは読み返すのではなく、新しい別の本を。もっともっと新しいことを知らなくては、そう思っていた。だから本棚に目が行くこともほぼなかった。若い頃というのはそういうものなのだと思う。名作と言われているものを、どこかで聞いた何かを、一つでも多く取り込んで自分のものにしなくては。そう思っていた。

今では全てを取り込むことなんて不可能だし、自分が自分という基準で選んできたものを改めて見返す、取り込み直すことに面白さを感じている。一度は読んだ本を再読してみて、自分はそれらの本の内容をほぼ覚えていなかったということに気付かされる。感覚的にではあるが、高校生の時に読んだ本の内容はほぼ覚えておらず、大学生になって読んだ本はなんとなく内容までわかるといった感じか。そうして、社会人になってから読んだ小説なんかはほとんど内容を覚えていない。日常の忙しさと、単純に読書への興味の波があるからだろう。

初めてこの本を読んだ高校生のころ、私は読書初心者であった。

高校ではラグビー部に所属していた。毎日飽きもせず、暗くなるまで練習をしていた。文武両道を謳う高校であったので、帰りの電車では英単語なんかを勉強し、家に帰って夕飯を済ませたらおそらく宿題なり復習・予習をしていたのだと思う。割に真面目に生きていた。それを窮屈とは思わなかったし、自分をそういった忙しい環境に置くことが自分にとって正しいと思ったし、そこには結果が出る喜び、純粋な愉しさみたいなものがあった。そこに本の入り込む時間はなかった。当時はロックが好きであったから、教科書・参考書以外で読む活字は音楽雑誌くらいであったと思う。

高校二年の春に左腕を骨折した。家から30分程自転車で走った県立高校が試合会場で、その折れた左腕で家まで自転車を漕いだことをよく覚えている。よく無事に帰れたものだと思う。家に着くまで痛みはそこまで深刻でなかったのだろう。病院に行ってレントゲン写真を見るまで、骨が折れているなんて思いもしなかった。それは誰の目にも明らかで、とてもとても綺麗に折れていた。そうあることが自然だと言われたら、そういうものかと思ってしまうほどに。そして、しばらくは部活もできなくなって、時間が出来た訳である。

通っていた整形外科には雑誌がたくさん置いてあった。どこの整形外科もそうだと思うが、そこは本当に長いこと待たされる病院であった。たくさんの人が広いロビーの長椅子に座って待っていて、学校帰りにそこに行って、帰る頃には日が暮れていた。中には「この人はどこを怪我しているんだろう」と思ってしまうような人も多くいたが、整形外科というのはそういうところだ。待っている間に英単語なり、古文の勉強をしていたと思うが、それもすぐ飽きる。そうして雑誌を見てみようかと思った。いつも読んでいた音楽雑誌はそこにない。(ギターの専門誌とスピーカーの専門誌はそこにあった気がする。)そして、姉の部屋でたまに見かける雑誌が置いてあった。ダ・ヴィンチである。その特集が村上春樹「1Q84」であった。

私は村上春樹も知らなかったし、小説もほぼ読んだことがなかったのだが、そこでは多くの著名人が1Q84を絶賛していた。そのなかに音楽雑誌でもよく見る有名な音楽家だったりもいたわけである。どうせ余るほどの時間を待たなければならないのだ、本でも読んでみようか、とその時初めて思った。

その翌日の学校帰りに、いつもは雑誌しか見ない駅前の書店に行き小説のコーナーに行った。1Q84はすぐに見つかった。平積みされていた。一冊2,000円弱、高校生にとっては安い金額ではない。本は分厚くて嵩張りそうでもある。でもそんなことは気にならなかった。とにかく、そこに書いてあることを読んでみたい、その本を自分のものにしたい、それ以上に本を読むということがなんとなくかっこいい気がした。

自発的に本を買って読んだのはこれが初めてであった。そうして、徐々に読書というものが自分の人生の中で確かな存在感を帯びていったのである。

当時、読書は主に病院の待ち時間と、学校への行き帰りの電車、部活の試合遠征の移動中に限られていた。家で本を読むことはほぼなかったように思う。ただでさえいろいろなことを感じる・考える時期である。移動中に読んだそれらの文章は一度は自分の中に留まるものの、時間の経過と共にどこかに消え去っていった。自分の中に残らなくても、それを読むという行為を私は好んで、まずは村上春樹の小説を片っ端から読んでいった。長編小説を全て読み終えると短編小説を読み、それらも読み終えてから初めて「他の作家の小説も読んでみたい」、と思うようになった。そうしていつも本屋で村上春樹の横に並んでいた村上龍の本を手に取った訳である。

前置きが随分長くなったが、これが私のこの本との出会いである。

例によって、この本の内容も全く覚えていなかった。キク、ハシ、アネモネ、全員が全員個性的なキャラクターであるのにその全員のことを全然覚えていなかった。本当にかつてこの本を読んだのだろうかと思うくらいに。

想像に過ぎないが、村上春樹しか免疫のなかった私には、村上龍の提示する景色・イメージの彩度がなんとなく強過ぎたのかもしれない。始めて芋焼酎をロックで飲むときのような、簡単には受け入れ難い強烈なものを感じたのだと思う。そうして、無意識のうちにそれを拒絶したのだろう。もちろん、村上春樹の文章にそれがないというわけではなく、村上春樹の文章は私にとって最初の文章で、暗い夜道で見つける明るい街灯の続く街道のように、そこには本当は怖いものが隠されていたとしても、そこを通る多くの時間は安心できるものであったのだ。

結局、村上春樹ばかりを読み過ぎていた私は、次の村上龍で挫折を味わい、自分にとって居心地の良い村上春樹の文章に戻っていった。小説は全部読んでしまっていたし、読んだことのない本が欲しかったから、エッセイと紀行文を読むようになった訳である。村上春樹のエッセイと紀行文を読んでしまうと、次は他の作家のエッセイや紀行文を読むようになった。その時には村上龍の時のような挫折はなかった。よくも悪くも、コインロッカー・ベイビーズほどの強烈な色彩はそこにはなかったからであろう。

小説というものは、フィクションでありかつそこには決まった正解のイメージがない以上、それを一旦恐れるとどこまでも怖いものになっていくようだ。私にとってだけなのかもしれないが。

30歳を前にした今、埼玉の田舎街から出て、高校生の頃に比べれば現実の世界でもギラギラとした怖いもの・魅惑的ものにも出会ってきた。その中には思い出したくもない(思い出せない)ほどの恐ろしい出来事もあった。もちろん、それと同じか少し少ないくらいの数の美しい出来事もあった。

コインロッカー・ベイビーズには、そうしたことが書かれているのだと思う。数々の恐ろしいこと、目を背けたくなること、それを乗り越えるか、やり過ごした先にそれぞれにとっての美しい世界は待っているのだということ。

小説というものはそこに教訓なり、教えみたいなものを探すためにあるべきものではないとは思うのだけれども、この本を読み終えて私が実感として腹に落ちてきたものは、そういったことであった。

美しいもの・場所を目指して生きていくというのは難しくて、それは不意に訪れるから美しいのだと思う。ただ、精一杯生きてきたかどうかで、それがどのくらい自分にとって美しいもの・場所になるのかは変わるのだと思う。だから、精一杯生きようと思う。全力で美しさを美しいと感じるために。


これがレビューと言えるのかわからないが、読み終えて感じたこと、思い出したことはこの通りである。


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