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下川町と、ゆらゆらと、ふるさと副業 第1話


第1話 下川町へのバス旅とあいみょん


あいみょんが流行っていた。2019年7月だった。
北海道下川町へ向かうバスの中で、私はずっと彼女のアルバムを聴いていた。
飛行機の中でも、列車の中でも、そしてバスに乗り換えてからも、『マリーゴールド』や『君はロックを聴かない』を、何度もぐるぐるとリピートしながら、旭川から北上を続けた。
麦わらの帽子はかぶっていなかったけれど、私のシャツの色もたまたまマリーゴールドに似ている日だった。

「下川町は、日本で一番寒い気温を記録した街だから、夏は涼しいですよ」
そう聞かされていたのに、なぜかその日の気温は「35度」もあった。
バスの中だけは涼しくて、灼熱の窓の向こうには草木が揺れ、北海道らしい名前のバス停がいくつもいくつも通り過ぎる。
「次は、上名寄19線」
「次は、上名寄20線」
「次は、西町21線」

たどり着いた下川町は、北海道らしい田舎だった。
私の知っている日本の田舎とは、ぜんぜん違っていた。
ただ真っ直ぐで、広くって、家と家とがソーシャルディスタンスを競うように並ぶ。
私はふと、なにか不在感のようなものを感じながら、バス停を降り下川町役場までを歩いた。


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「ここは、開拓者の町なんですよ」
町役場の世話役の方に、町の話を伺った。
彼の隣にはなぜか、慶応からの研修というインターン生も同席していた。卒論でアメリカを視察後、下川町に惹かれて訪れたという。人材交流が盛んなのだろう。陽に焼けた慶応ガールと世話役が並んでいると、「ここはどこ?」と場所の感覚が揺らいだ。
下川町の歴史は、浅いらしい。
明治期以降、開拓地での将来を信じた人々が本州から渡ってきて、「一旗揚げてやろう」「もっと豊かに暮らしたい」と望みながら、生き抜くために移民者同士で助けあって築かれたのがこの町だという。
「だから今も、ベンチャーな人を吸引する空気が町に漂っているんです。」
と世話役は笑った。
日本にも、アメリカの西部開拓地のような空気感が漂う町があることを、私はその時はじめて知った。そういえば、ポートランドの外れに少し似ている。

日本には、どこの田舎であっても、古いお寺や何代も続く屋敷が多い。それは時に、歴史の重みとして圧し掛かる。が、この町にはそれがない。あのバスを降りたとき感じた奇妙な不在感は「歴史の重圧」だったのだろう。
さらに、下川町は昭和中頃にいったん廃れてしまったらしい。なのにまた「SDGsのまち」として注目され再活性化してきたのは、ここ10年程度のこと。だから今の下川町には、SDGs後に出来た新しい施設群と、さびれかけていた元の町並みとが混在している。
ここにいると、どれが新しいとか古いとか、どこが日本的とか開拓地的とか、だれが地元民とか移民とかが、次第にどうでもよくなってくる。
不思議な町だ。
ここには「古い方が正統」「地元民が偉い」「SDGsが新しい」といったマウンティング圧が希薄で、フラットに「どっちもありでいいじゃん」という気風にあふれている。
そして、新旧のどちらへもゆらゆら揺れながら、次代の新たな均衡を見出そうとしている。
そんな気がしながら話を伺っていた。

「では、夕方から寺小屋でのアドバイザー役、よろしくお願いしますね!」
と世話役から告げられた。その瞬間まで、私は真の用務を知らなかった。SDGsで有名な下川町に取材に訪れただけのつもりでいた。
隣を見た。私の隣には宮崎くんが居て、今回の視察に誘ってくれたのも彼だった。
彼の目は「いや、僕も知らなかったです!」「いま、初めて聞きました!」と雄弁に訴えている。なるほど、サプライズね。

どうやら今夕、地元の若者や移住者が集い、アドバイザーとして招かれた数名に対し、自分たちが手掛けたいビジネス案をプレゼンする会が開かれるらしい。それが「森の寺小屋」と称されるイベントだった。
つまり、あと数時間後に、いきなり下川町の人たちとの濃密な接触が始まる―― 。

「ま、いっか」と私は、下川町の風に吹かれながら、その成り行きを受け容れた。
いきなり旅先で、異業種交流会というか、地元起業家交流会へ放り込まれることになったけれど。

日常と非日常の間で、ゆらゆらと揺れてみるのも悪くないと思った。
だってここは開拓者の町なのだ。


(第2話へ続く)

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今回は、ロコワークメンバーやちの投稿をお届けしました。出張で訪れた先で、不意に放り込まれた地元との交流の輪で見たものは…?第2話へつづきます。