希死念慮と戦う理由

無かったら死んでるからなあ。何だろうなと考えてみた。

多分というか確実に悔しいのだ。過去の自分の事を無かったことにしてしまうのが。あんなに苦しかった時を生き抜いたのに幸福だと感じる期間がそれに比べて短いのが悔しくてたまらないのだ。

実は負けず嫌いなんだなあと最近気付いた。それが大きな割合を占めているから。

他に細々とした理由はある、漫画の続きが読みたいだとか、飼っている鳥を見送ってからがいいとか、生きた証を少しでも残したいとかそんな感じの。

でもめちゃくちゃ死にたかった時に、何度か死のうとして最後に思った事は、過去の自分が辛そうな顔をしていた、それで終わらせていいのか、あの時の状況に比べると今は格段にいい環境にいる。なのに、終わらせるのかと。

ぼたぼた泣きながら自分に謝るのだ。あんなに辛かったもんな、あれを乗り切ったのに今の自分が辛いだなんて駄目だよな、そうだよなって。

ずっと孤独とやるせなさと不甲斐なさと戦ってきたのに、自分が必要とされずに終わらせるのは悔しいのだ。

そんな話を大叔母と今日話してきた。どうしても私を知る人と話したくて近くに住んでいる大叔母の家に行ってきた。

大叔母は突然の訪問にも関わらずお茶とバームクーヘンを出してくれた。泣くもんかと思っていたが少し泣いた。泣くな馬鹿って笑われた。そうだねって笑えた。

今を生きなよ、これからを生きなさいよ、今まで乗り越えて来たのは未来が幸せだと確信してきたんでしょ、だったらそのための努力はしないとって言われた。

その努力は惜しんでないよ、ただ体力や精神力に今は限界があるから休み休みだけど、と言ったら、やってるなら偉いよ、お前はそういう所きちんとしてるねって久々に褒められてきた。

最近褒められる事が増えた。皆に比べたら収入やらは少ないしまだ実家に甘えている事はある、でも皆褒めてくれるのだ。生きてて偉いよ、って。

そんな日が来るとは思ってもいなかった。罵声と悪口ばかりの日々だった。私なんぞと何度も何度も思った。

褒められるってこんなに嬉しいんだなあって思った。嬉しくて泣くってどんな感じかと思ったがこんな感じか。しかも褒めてくれる人は皆、きちんと叱ってもくれる。気にかけられるというのは嬉しいものだ。

話が少し逸れた。

今でも理由のない希死念慮に襲われる。ただただ漠然とこの世から去りたいという願いが襲ってくる。

だが私は戦おう。真っ当な理由(寿命)で死ぬまでは自身では終わらせない。あの過去の私を微笑ませるまで私は戦うのだ。あの時の私が生きてて良かったと思うまで。


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