見出し画像

魅力覚醒講座に入ったら、コミュ障が改善され、生きるのが楽しくなった話

魅力覚醒講座を受講した2023年

私はずっと、情緒不安定な人生を送ってきた。自己肯定感が低く、他人をうまく頼ることができなかった。安心して本当の自分を見せられずにいたので、様々なことにチャレンジはしてみるものの、すべて空回ってきた。

ひとりでいるのも好きだけど、自分のことを分かってくれる人なんて誰もいないと思って、本心はどこかさみしかった。明るくおしゃべりな人を見ると、うらやましく感じていた。

自分の声のこと、人前でうまく話せない

具体的に、いつから自覚し始めたのか覚えていないけれど、私は20歳前後の時から声が出にくくなっていた。
なにかを発言しようとしても、声が詰まって出ない。頭で言おうと思った言葉があっても、自分が発声しやすい言葉に置き換えて話してしまうので、まどろっこしい言い方になる。
出来れば、声が出にくい日は、誰とも話したくなかった。

社会人になってからも、人前で話すのはどえらく緊張する。
心臓が飛び出るんではないかというほどドキドキし、全身が震えて、冷や汗をかく。周囲からの???の目線が突き刺さり、この場から消えてしまいたい、と何度も思った。
なんでもういい大人なのに、他の人のように、堂々とわかりやすく順序立てて話すことができないんだろう、っていつも落ち込んでいた。

他人を信頼できるようになったら、苦手意識が薄まった

去年、ふとしたきっかけから、小田桐あさぎさんの魅力覚醒講座に入った。自分と向き合い、深堀りするワークがいくつもあるのだけど、ずっと毒親だと思っていた母親の愛情をリフレームしたら、現在の環境に変化があった。

  • 以前より人前で話すことに抵抗がなくなった

  • 幸せ感度があがった

  • 仕事が楽しくなった

  • 思いがけず妊娠をした

過去に自己開示ができなかった環境にあったのは事実だけど、大人になってからもそういう自分でいることを選択して、勝手に苦しんでいたのは私自身だった。環境や他人のせいにしていても、何も変わらない。
自分で自分の人生の舵を取って、変わる覚悟を決めたことで、今までとは違う自分に出会うことができると実感している。

自分を抑え込んでしまった過去

私の育った家は、父はサラリーマン、母は専業主婦の一般中流家庭。幼少期の頃は、活発な女の子だった。小学校では勉強も運動も出来たので、クラスでもリーダー的存在だった。

だけど、親の教育方針で、中学受験をして、校則の厳しいいわゆるお嬢様学校に行ったころから、雲行きが怪しくなった。
家では、母がヒステリック全開になっていた。「後ろ指を指されるようなことはしないでよ!」が口癖で、何が気に入らないのか、普通の会話をしていたと思ったら、急に泣きわめき出す。そんな母親がいる家と、少しでも個性を出そうものならすぐに呼び出される、規則の厳しい学校の往復。
色鮮やかだった子供時代から、暗黒の思春期に突入していった。

私は、母がどうやったら今日一日をヒステリックにならずに終えてくれるかを考えて、必要最低限にしか会話をしなくなった。母は、自分の感情をコントロールできないようで、私の日常の話や、本音を聞いてくれる程の余裕はなさそうだった。母がヒステリックになってしまったら、中々落ち着いてくれないので、夕飯を駆け込み、なるべく早く自分の部屋に逃げる、ということに専念していた。

ある時、いつもの母のヒステリーが始まり、一向に止む気配がなかった。こちらも、なぜそんなに怒られているかも分からないし、いつも母ばかり感情を爆発させて、私の悲しみや怒りのぶつけどころはない。
理不尽だ。もう我慢できない。この目の前の泣きわめいている女を台所の包丁で刺して黙らせたい、と思った。結局、実行に移す勇気はなく、ぐっと堪えてその場を乗り切った。
私は、その当時いつもなにか負の感情を抱えて、思いっきり笑った記憶がない。自分の思ったことは極力口に出さずに、内に溜め込むようになった。

幼少期から通っていた習い事も、本格的にプロを目指すような教室で、こちらも私にとっては、厳しくつらい思い出だ。
才能のなさを感じながらも、辞め時が分からずに、高校卒業まで通い続けた。太ると先生に怒られるので、自分自身に厳しくダイエットを課していた。寒天とトマトジュースを固めると痩せるとTVで観ると、せっせと作り置きをし、夕飯の一番最初に食べてお腹を膨らませ、他のカロリーの高そうなおかずを食べないよう摂生に努めた。

「我慢は人生で当たり前」という母の考えの基、気づいたら、私も我慢が当たり前の人間に育っていた。
1円でも安いものが正解、カロリーが低い食べ物が正解、といったように、本心からではなく、頭で「正解」を先に計算してしまう癖がついていた。

なにをしている時が楽しくて、なにをしている時は嫌で、本当は何が食べたくて、本当は何を望んでいるのかがわからない。自分の気持ちを置き去りにしていることは薄々感じていたけれど、どうしたらいいのかわからなかった。立ち向かう勇気も気力もなく、人生投げやりになっていた。どこにいても窮屈で楽しめない10代を過ごした。

なにをしても中途半端。ずっと生きにくかった

中高は進学校で、周りで大学を受験しない人は一人もいなかった。大学に進みたいか進みたくないかも分からなかったけれど、一人だけレールから外れる勇気もなく、入れればどこでもいいや、という気持ちで大学受験に臨んだ。

大学に行けば、追い求めていた自由があると思っていて、ただそれだけがモチベーションだった。今までの規則に縛られた中高生活とは違って、大学はパラダイスなんだと思っていたが、いざ大学生になってみたら、思い描いていたパラダイスは特になかった。都内までの電車通学や、都会の人込みが苦手だったので、通勤ラッシュの時間帯を避けて、大学が終わったらすぐに帰っていたし、熱意を持って学びたいことがなかった私は、学校生活も楽しむことが出来なかった。

人に心を開くことが出来なかったので、例えば、同じ学部で仲良くなった男子に告白されるも、付き合う勇気がなくて、友達でいたいと断った。本当は、深く分かり合える誰かを欲しているのに、いざ来られると、これ以上私に入ってこないで、とシャットアウト。当時はすごく付き合いにくい人だったと思う。

相変わらず母親は、機嫌が悪いと1週間くらい口を聞いてくれなかったりして、気を遣わせる人だった。母にとっては、とりあえず子供たちは、後ろ指を指されないような学歴があれば良くて、肝心の私たちの気持ちを理解しようとはしてくれなかった。(私から話すのを避けていたのもあるけれど。)

幼少期から続けてきた習い事を辞めた反動や、思い描いていた大学生活がそこにはなくて、夜中に家族が寝た後、菓子パンを大量にドカ食いして、過食をするようになっていた。自分ってなんのために生きてるんだろう、とか、この悶々とした気持ちを分かってくれる人なんて誰もいない、という虚しさを過食でごまかした。
これ以上見えないレールに従うことが出来なくて、就職活動を全くする気になれなかった。その頃、もし病院に行っていたら、鬱認定をされていたと思う。大学まで通わせてもらったのに、就職しないなんて親不孝者だと周囲に言われながらも、一旦なにもしない時間が欲しいと思った。

それでも、一度は海外に出てみたくて、半年間派遣で働き、貯金をして、ワーホリで オーストラリアに行った。
(今思うと、他人に心が開けないから)ホームステイが合わなかったのと、 唯一私を理解してくれていた祖母が倒れたことをきっかけに、2ヵ月の語学学校が終わったら日本へ帰国した。行く前は、オーストラリアで仕事もして、2年くらい滞在して、英語もペラペラになってるのかなぁ、なんて淡い期待があったが、もはや自分のコミュ障が露呈しただけで、あまり馴染むことができないまま終わった。

祖母の入院先の面会を繰り返すうちに、看護師さんやリハビリの先生のようなやりがいのある仕事をしたいと、福祉系の専門学校に入学した。やっと自分が目指すべき道が見つかったと思った。
もういい歳だし、絶対卒後するんだと意気込んで、勉強も満員電車も大変だったけど、頑張って通学をしていた。

声が出ない

でも、いつの頃からか声が出にくくなっていて、 毎授業で先生が出欠をとる時の「はいっ」の返事が、喉が詰まって「ぇいっ」みたいな変な声になってしまう。1日に5授業くらいあったから、毎度の出欠確認だけでも気が重い。一度、それを隣の席の生徒に真似をされた。
その時は笑って誤魔化したけれど、内心はすごくショックだった。「私、こんな変な声じゃ病院研修も行けないや。」と、プツンと糸が切れてしまい、結局1年で退学をしてしまった。
声が出ないことで、自信がないことを誰にも打ち明けられなかったから、突然母親に学校を辞めると話したら、泣きながら縁を切られた。

知り合いが住んでた所以で、沖縄に逃げるように移住した。専門学校時代の200万円の借金返済をかかえ、夜はスナックで働いた。家計簿をつけて自炊をし、稼いだお金はなるべく借金返済へと回した。

沖縄の、空が広くて、緩くて優しい空気感は、自分にとても合っていた。だけど、私には頼れる人はいないし、なにをやって最後までやり遂げることができないダメ人間だと、自己肯定感はどん底だった。面白く生きている仲間もできて、表面上は楽しく生活していたけれど、心の奥のさみしさは消えなかった。自暴自棄で、誰かを頼りたくて、行きずりの男性と寝たり、その頃は随分はちゃめちゃやっていた。

痙攣性発声障害の診断

大学生の時くらいから、声が詰まるなという自覚はあって、声の調子が悪い日は、あまり人と会話をしたくなかった。思い当たることは、思春期の頃に、自分の気持ちを押し殺してしまう癖がついていたので、気持ちの問題なんだろう、と思っていた。声が出にくいことを誰かに相談したこともないし、声のせいで積極的になれないことも隠していた。お酒を飲むと喉が緩むのか、症状が緩和される気がしていて、飲みの場だと自分を発揮できる気がしていた。

ある時、ずっと夜の仕事を続けるわけにはいかないと、リゾートホテルでスパの面接を受けて、内定をもらった。けれど、担当者から電話がかかってた時に、「その声どうしたんですか?」と言われた。ドキッとした私はさらに詰まった声で、「実は最近声の調子があまり良くなくて…」ととっさに答えると、「お客様にその声でのご対応は難しいと思うので、まずは治療の時間にあててください。」と、内定を取り消されてしまった。

やっと就職できる、と思っていた私は、電話を切った後、「私ってそんなに人を不快にさせる声なんだ。やっぱり何をやってもうまくいかない。」とショックでボロボロ泣いた。 そのまま泣きながら、久しぶりに母親に電話をした。なにを話したかは覚えてないが、縁を切った娘からいきなり嗚咽混じりの電話があり、びっくりしたと思う。父親とそれは可哀そうだという事になったらしく、東京で病院を探してくれて、戻ってきなさいと言ってくれた。痙攣性発声障害の診断を受け、手術を受けた。

手術をしたけど拗らせは変わらず

手術の後は、声はしばらくはかすれていて、手術前のようにカラオケで高い音を出せなくなった。完治したかと言うと、そんなこともなくて、現在も、未だに出にくい時があると感じながら生活している。もちろん、手術前に比べたら、断然良くはなっている。

手術をしたら、ものすごく生きやすくなるのかなと思ってたけど、やっぱり自分に自信は持てなかった。
しばらく実家で療養した後は、当時お付き合いしていた彼の家に転がり込んだ。彼は、生活費なども出してくれるような優しい人だったけれど、“自分の力で生活できないなんて情けない”と思って、契約社員の仕事を見つけてきて、一人暮らし用のアパートを近くに借りて出て行った。

今思えば、彼の優しさを有難く受け取るだけでよかったんだろうけど、その当時は、自信もないくせに、意固地になって一人相撲をし、勝手に自爆していた。
そんなこんなで、人の優しさも素直に受け取れなくて、恋愛もうまくいかず、仕事も転職を繰り返し、その都度一貫性のない職種に就いていたので、お給料はとても低かった。一人暮らしのアパート代を払ったら、少ししか残らず、貯金なんて全然出来なかった。

お金はあまり無いけれど、10代で味わえなかった青春はたっぷり味わえた。30代に入り、ふと環境を変えたくなった。
ずっとなにをやってもだめだと思っていたけれど、やっぱり一度は正社員になってみたかった。運よく2つ目に受けた会社で、正社員として働けるようになった。30代にして初の正社員、やっと大人になれた気がした。その後すぐに、出逢った人と結婚することになった。

正社員になれたのに、結婚もしたのに、なにか物足りない


結婚して、旦那さんが一番の私の理解者でいてくれる安心感はとてもあったし、お金の面でも、やっと安定した生活を送れるようになって、人生万々歳のはずだ。でも、やっぱり日常での生きづらさは消えなかった。

例えば、職場で電話が鳴ると、一番下っ端だった私は、なるべく最初に受話器を取るようにしていた。でも、しーんとしているフロアで、私の声だけが聞こえる状況は緊張して、声が詰まってしまう。“ああ、また変な声になっちゃった。みんなから電話対応もうまくやれなくて出来ない奴だと思われただろうな。”と心の中で自分にダメ出しをする。大勢の人の前でなにか話さないといけない時は、声が震えてしまうから、本当に嫌だった。なるべく目立たないように、前に出ないようにと、自分を抑えるクセは継続していた。

有難いことに、手の届かないと思っていた正社員になることができ、理解のある夫もいて、日常生活は、質素ながらもなに不自由なく送れるようになった。それなのに、結局のところ、私の「好きなこと」が何なのかわからなかった。

仕事の内容も、正直興味があるわけではなかったけれど、生活費のために辞められない。辞めたところで、自分には何が出来るか分からない。喉の手術もしたけれど、相変わらず自分に自信はないし、発言するのが苦手だ。人といるとどっと疲れてしまって、休日は家でゆっくり過ごして、来週からの仕事のために気力体力を温存する。

友達がいないわけではないし、昔の自分から比べたら、現在の状況でも十二分に幸せなはず。なのに、なにかが物足りない。このままなんとなく定年まで働いて、なんとなく人生終わっていくのかな。そんなモヤモヤした気持ちから、YouTubeで「使命」とか「天職」のワードでヒットした動画を片っ端から観ることが趣味になっていた。

小田桐あさぎさんとの出会い

そんな中、ある作家さんを知った。小田桐あさぎさんだ。その人は、まったくスピリチュアル系でもなく、自己啓発系といった感じでもない。見た目はド派手で、成金ルック。最初は、ちょっとこういう人苦手だなぁ。。と思っていた。だが、しばらく小田桐あさぎさんの動画を観ているうちに、話している内容がとても本質的だった。見た目とのギャップもあり、気付いたらあさぎさんの動画にのめり込んでいた。

彼女は、自分のことを堂々とさらけ出していて、いつもゲラゲラ笑って楽しそうだった。それでいて、お金と時間の自由があって、今では世界中を移動しながら人生を謳歌しているという。
私も、“この人のように、人からどう思われようと、もっと人生楽しく、キラキラ生きたい!人生こんなもんで終わせたくない!”という気持ちが湧き上がってきた。

思い切って魅力覚醒講座に入ってみた

小田桐あさぎさんのことを調べてみると、定期的に講座を開催しているという。期間限定で申込を受け付けていて、私があさぎさんを知った翌月に、ちょうど次の講座生を募るとのことだった。しかも、次回は半年近く募集されないらしい。もっと彼女の考え方を深く知りたい、と思った私は、清水寺から飛び降りる覚悟で講座に申込みをした。

ずっと、自分にケチだった私は、自分自身に対して、決して安くはない講座代を出すことは、本っ当に勇気のいることだった。震えながら決済情報を入れ、えいっとボタンを押した時、それだけで私の中でなにかが変わった気がした。もしも、後で“ちょっと違ったかも”と思ったとしても、飢え死にするわけではない。自分の人生が1%でも生きやすくなるヒントがもらえたら、十分すぎる価値があるではないか、と。それよりも、これから残りの人生、勇気を出さずに、悶々としたまま生きる方が嫌だった。ぱっとしない人生は、もう懲り懲りだと思った。

講座に入って、一番最初に驚いたのは、あえての"タメ語文化"だった。初めのうちは、ドキドキしながら初対面の講座生達にタメ語を使っていたが、だんだんと昔から知っている友人かのように、深く語り合える仲になっていた。あさぎさんも、他の講座生たちも、本音で話してくれて、自分の気持ちも安心してさらけ出すことのできる環境だった。

そこで、私は今までどんなに他人を信頼してこなかったか、ということを痛感した。人は誰しも優しくて、かつての母のように怒ってくる人なんて、本当は今までも一人もいなかった。それなのに、その人たちの優しさを信じられず、「人様に迷惑をかけてはいけない」と、勝手に自分をぎゅっと押し殺して、素直に自分を表現することを恐れていた。他人に壁を作っていたのは私だった。

この講座では、魅力覚醒のためのワークがいくつかあって、終盤に親ワークというものがある。私はそのワークをすることによって、過去のつらかった出来事をこのように考えられるようになった。
「母は、確かに未熟なところはあったけれど、私を社会で不自由なくやっていけるよう、愛情から厳しくしていたのだ」と。ただ、母自身が、自分を満たすことを置き去りにしてきてしまっていたため、満たされない母の心の叫びが爆発していた。母も一人の未熟な人間で、いっぱいいっぱいだったのだと、捉え直すことができた。

それでも、母は、毎日欠かさず寝食を満たしてくれ、学費や習い事にお金をかけてくれた。それはそれは、計り知れない愛だったのではないか。私の思い描く愛情ではなかったというだけで、私が親からの愛を受け取り拒否をしていたのだ、と捉え直すことができた。

魅力覚醒講座に入ってからの変化

つい最近、こんなことがあった。
久しぶりに実家に帰省した際、以前とは違って、両親と対等に話せたり、自分の意見も言えるようになっていた。一泊して帰る日の朝に、そろそろ両親に孫の顔を見せてもいいな、と、初めてそんな思いがふと浮かんだ。

私は、結婚してからも子供が欲しいと思えなかった。私もあんなに嫌だった母のように、子供にヒステリックに当たり散らしてしまうのではないか、子供に同じ思いをさせてしまうのではないか、と怖かった。
それに、“私はまだ傷ついているんだからね!許してないからね!”と子供を持たないことで、どこかで両親を責めていたんだと思う。

だけど、魅力覚醒講座に入ったおかげで、親の愛情を受け取り、心を開くことができるようになった。それと、自分を大切にできるようにもなった。
よく、"まずは自分を大切にしましょう"と言われるけど、実際にはどうやったら自分を大切にしたことになるのか、わからない人が多いのではないかと思う。講座に入った半年間で、私は自然とそれが身についていた。講座内での気づき→実践、気づき→実践の繰り返しのおかげだ。
自分を満たすことに重きを置いているうちに、その実家に帰った数日後、なんと妊娠が発覚したのだった。

ずっと自分に厳しく、他人も信頼出来なかったことが、生きづらさに繋がっていたのだと思う。本当は、両親のせいではなく、自分でこの自分でいることを選んでいたのに。この講座に入って、心の鎧を少しずつ脱いでいったら、妊娠という思いがけないプレゼントがあった。
きっと神様が上から見ていて、やっと受け入れる準備ができたねって授けてくれたんだと思う。

職場でも、自分らしくいられることで、売上にも貢献できるようになった。リピートしてくれるお客様からの問合せに喜びを感じたり、新規のお客様から高単価の仕事を受注できたりと、仕事を楽しめるようになっている自分がいる。ずっと、仕事は我慢した対価にお金を頂くものだと感じてきたから、仕事が楽しいなんて、初めての感覚だ。
お客様であっても、「味方」と思えるようになったから、対等に接することができるようになって、うまく回るようになったのだと思う。

本音ではいつか会社員辞めたいな、と思っていたのに、自分が変化したから、お客さんも、上司も、同僚も、みんなからの愛が伝わってきて、働くことが苦じゃなくなった。
人からどう思われているんだろう、とびくびくしたり、変な遠慮もしなくなり、無駄な気疲れも減った。あんなに苦手と避けていたアウトプットも、少しずつ楽しめるようになっている。空回り人生とはサヨナラをして、今は毎日たのしく生活ができるようになった。

今までウン十年の人生の中で、自信がなくて悩んできて、実際に喉の手術もして、自分を変えたくて頑張ってきた。それが、魅力覚醒講座に入ってからたったの数か月で、こんなにも変化を感じられるようになっていたのには、少し驚いている。もちろん嬉しい驚きで、もっと早くに知っていれば良かったと後悔している。だって人生巻いてナンボだから。

短所は個性であり魅力

小田桐あさぎさんが、短所はあなたの魅力だと言っていた。アニメや漫画を思い浮かべてもわかると思うけど、長所しかない人は、主人公にはなれないと。確かにそうだ。主人公になる人物像は、みんなどこか抜けていて愛されキャラだ。魅力とは、人よりも優れた部分ではない。
誰もが長所と短所があって、それが個性となり、唯一無二の魅力となるのだ。だから、私も短所にばかり目を向けることをやめた。たしかに長所だけの人間なんて面白くない。

肝心の声の症状は、今でも気になる時もあるけれど、そんなことはどうでもよくなっている自分がいる。私がちょっと変な声だとしても、周りはそんなに気にしてないし、ありのままの私を受け入れてくれていると思えるようになったからだ。だから私も、このままの自分を受け入れ、どんどんさらけ出していこうと思う。

コミュニケーションの悩みを手放す

コミュニケーションとは、人付き合いだ。
私は、今までの人生で、関わってきてくれた人たちの愛情を素直に受け取ることが出来ず、たくさん傷付けてきた。本当に申し訳ないことをしてきたと後悔している。これからは伏線回収していきたい。
もしその人たちとまた関わることがあれば、今までの感謝を素直に伝えたいし、もし私のようにコミュニケーションに悩みを抱えていて、生きにくさを感じている人がいたら、少しでも生きやすくなるきっかけを見つけてもらえたら嬉しい。

人と関わりながら生きる以上、コミュニケーションは一生関わってくることだ。だとしたら早めに悩みを解決して、自分らしさを発揮しながら周囲と関わっていく方が、人生何倍も楽しいと思う。
もちろん、悩んできた日々からたくさんの学びがあったと思うけれど、もう十分すぎる程味わった。どんな時も、変化を選ぶことは怖いことだけど、新しい自分に出会いたい人には、全力でこの講座をお勧めしたい。

小田桐あさぎさんが、「魅力覚醒講座に入ってすぐの講座生は、全員コミュ障だ」と言っていた。私は今まで"自分はコミュ障だ"と人知れず悩んできたのに、実はみんなも大なり小なりコミュ障だったのか!とほっとした。

この講座は、大人になってから、心から本音で話せる友達ができる場所と言われている。自分ひとりでは、物事を別の視点から捉え直すことは難しいけれど、信頼できる仲間の存在はとても大きい。
受講生は、講座が進むにつれて、忘れていた自信を取り戻し、みんなそれぞれの環境で、自分を活かしながら生活できるようになっている。私も今では、だいぶ素直に、また積極的にもなって、生活が楽で楽しくなった。日々ちょっとした変化を感じる瞬間がとても嬉しい。

最後に


私のように、「自信がない、アウトプットが苦手」と思い悩んでいる人がいたら、ぜひ今までのあなたの人生を棚卸しして、一緒に魅力覚醒していきませんか。
私は、今やっとスタート地点に立てました。これからどんなふうに、魅力が覚醒していくのか、今後の展開がとても楽しみです。

最後まで読んで頂いて、本当にありがとうございました。


痙攣性発声障害のこと、魅力覚醒講座のこと、コミュニケーションのお悩み等々、なんでも気になることがあれば、こちらのLINEからご質問ください。


LINEに登録してくれた方には、私がワークで取り組んだ内容を無料プレゼントをしています♪
今回は、まだ講座に入られていない方も体験してもらえたらと思い、魅力覚醒講座の一部のワークをLINEでご紹介しています。


100の努力より1の勇気が人生を変えると言われています。
一歩ずつ、少しずつ行動に移して、あなたの魅力を活かしながら一緒に人生を楽しんでいきませんか?


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?