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認知症は神様からの贈り物だとは思わない

アルツハイマー型認知症の祖母が小規模多機能型居宅介護を利用し始めて1ヶ月が過ぎた。

医学生時代、ある講義で、教授が、「私は認知症になって死にたい。認知症は神様からの贈り物だと思う。周りは大変かもしれないが、本人は死を恐れることなく、何も分からなくなってニコニコして穏やかになれる。」と話していたのを思いだす。当時は、ふーん、そうなのか、程度にしか思わなかったが、今、祖母をみていると、その言葉には賛成し難い。
「財布が見当たらない、誰かが盗ってっちゃうんだよね」
「下着がない、持ってく人がいるんだわ」
「もう馬鹿になっちゃって…何にもできなくなった」
「家に帰ろうと思う、迎えにきてもらうよう電話しないと」
ややパニック状態になって電話をかけてくる。そんな祖母の様子をみていると、本人は認知症の症状である物盗られ妄想や帰宅願望に苦しんでいるように思われ、また、これまでできていたことができなくなっていくことに戸惑い、漠然とした不安に直面しているように思う。認知症が神様からの贈り物だとは、私には思えない。

先日、私は長男を出産した。祖母にとって初めてのひ孫だ。息子のふにゃふにゃの皮膚に触れていると、中島みゆきの「銀の竜の背に乗って」の「柔らかな皮膚しかない理由は 人が人の傷みを聴くためだ」という歌詞を思い出す。祖母は今、何に苦しんでいるのか。願うのは、祖母が安心のなかで、日々を過ごせること。先に向こうに行っている祖父が「そろそろ来たら」という日まで。(その日まで祖父は、誰にも咎められずにウイスキーちびちびやったり、ハーゲンダッツのバニラ味を思う存分食べたりしているんだろう、きっと)

祖母にはかわいがってもらった。母が妹の出産のために里帰りした時、一時的に通った幼稚園は、お弁当を完食するまで自由になれず、昼食時間が終わっても食べ終えられない子は、椅子を机にしてお残りさせられた。(今思うと厳しい園だ)私は食欲旺盛な子供だったが、寂しさの表れか、園では食が進まなかったようで、たいていお残りだった。祖母は、私がなんとか完食できるように、とあれこれ工夫を凝らして、直径2センチほどにご飯を丸めて、すべて違うふりかけで味をつけたものを数個つめてくれたりした。金物店で経理の仕事をしながら。登園もしぶったりで、大変だったろうなあと思う。洋裁が趣味だった祖母は、ひな人形も縫ってくれたのだ。とにもかくにも、祖母が安心して過ごせる道をみつけていけたら、と、ひなまつりの今日、思った。

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