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赤い橋で待ち合わせ【C】

 町の片隅にひっそりと佇む赤い橋。そこでの待ち合わせは、何故こうも不幸の予兆を孕むのか……

 さて、こんな話もある。
 赤い橋の欄干にもたれるのは、まだ幼さを残す少女である。先ほど不運な事故にあい、とうに命を落としている。のだが、本人はそれに一向に気がつかず、黄昏の陽に呆然と染まりつ、絶えず何かを待っているのだった。
 何を待つのか?
 それは少女にも分からない。死が彼女の記憶を断絶してしまった。待つのはおそらく人だろう。だったような気がする。では、それは誰? その段になると、もう全く分からない。けれどおぼろげな記憶の輪郭だけ、眼裏の闇にうつろった。
 もしかすると待ち人は、男性だったかもしれない。少女は生前ひどく奥手だったので、交際経験はなかったが、しかし時折妙な好奇心に突き動かされてはマッチングアプリを唐突にはじめたりしていた。
 彼女が興味があるのはいわゆる同世代の男子ではなく、かなり年上の類だった。彼女の父親が早くに亡くなったことも、ともすれば関係するのかもしれない。ひどく年上の男性たちのプロフィールばかりを眺め、ちらほらと付くいいねのハートに心を躍らせていたりした。しかし結局は奥手の彼女のこと、誰一人として会うことはなく、始めたときと同じ唐突さでアプリを削除して終わるのが常だった。
 そんな記憶が微かに死せる彼女をもとらえていたのだろうか、彼女はきっとやってくるのは男性だろう、そう思った。
 そうだ、あたし、きっと誰かを待っていたんだ。一度信じてしまえばそれが確信に変わるのは早く、彼女は気疎い靄のようなものとなりながら、赤い橋の欄干にたゆたった。揺らぎつづける黄昏の陽が美しく、行き来する人々の目にうつれば、死せる彼女はどんなに魅力的にうつったことだろう。しかし幸い彼女の姿が見える者はおらず、彼女は手持ち無沙汰に、きらめく川の面を眺めつづけた。
 そうして、どのくらいの時が経ったろう。
 陽はなかば暮れ、橋の欄干も夜の闇に呑みこまれようとしていた。淡い黄昏のかげりをまつわらせたまま、彼女はとうとう途方に暮れた。
「君、どうしたの」
 かけられた声音に、奇跡的に待ち人が現れたのだと、彼女は信じた。
 振り返ると、そこには一人の男がいた。
 ちょうど彼女がマッチングアプリを駆使してプロフィールを眺めていたような男性……年が離れ、落ち着きがあり、全身から大人の気配を揮発させているような、そんな理想の。
 彼女は死んでいるにも関わらず、運命を感じた。まさしくタイプだった。
 今はもうなき彼女の脳がしかし架空のものとして全力で働いた結果、彼女は美しい記憶の断続を発見し、それはただの捏造に過ぎないのだが、そのきらめきがあまりに美しく、彼女はみずから偽りの記憶に染まることにした。
 それは、無意識の選択。彼女はマッチングアプリでようやく出会った理想の男性と、今日、初めての逢瀬を遂げる。シンプルにして、満足のゆく捏造。
 少女は微笑んだ。男も不思議そうに微笑み、それからふたりは並んで歩きだした。

「へぇ、こんなとこに住んでるんだ」
 端麗な男の姿には似合わず、連れてこられたアパートは粗野だった。昭和の匂いを色濃く残し、古く、雑多で、飾り気がない。
 男が電灯の紐を引くと、ぱちぱちと幾度か瞬いてようやく部屋の灯がついた。
 六畳ほどのそこは狭苦しく、色褪せた畳が、少女が写真上でしか見たことのない得も言われぬ郷愁をそそった。くたびれたカーテンのぶらさがる窓辺、そこに並んだクーラーボックスが奇妙な存在感を醸していた。
「狭くて悪いけど」
 男は笑いながら、冷蔵庫から麦茶のポットを出してくれた。
 少女はかすかにざらつく畳に腰を下ろし、部屋のなかの奇妙な空気を嗅いでいた。死せる彼女に嗅覚はない。けれど部屋を支配する濃密な息吹のようなものを感じて、居心地が悪かったのだ。
「……ここ、女の人がいるね」
 思わず、そんなことを呟いた。
 黄昏をまつわらせる少女だけに、生身の人間に分からぬことが察知できたのだろう。やわらかな気配はひとつだけではなく、ゆるゆると一体となりながら、みな、男の背にしなだれかかる。
「面白いこと、言うね」
 男は静かに笑って、テレビ見る?とそう聞いた。
 ううん、YouTube見たい……少女の返事を待たず、ゆるやかに男の腕が伸びてきた。少女はやすやすと畳に転がり、そのうえに男がかぶさった。
 電灯の明かりが逆光になって、男の顔は見えない。
 ただ、ひどく優しく微笑んでいる……気がした。

 気がつけば、場面は展開している。
 肉と肉の絡む艶めかしいシーンは少女の予想を裏切り訪れず、かわりに眼前に広がるのはおおらかな海――それも、真っ赤な。
 男の背がぎしぎしと忙しなく動いている。労働にいそしむ筋が躍動し、肉が盛り上がり、肩甲骨が目に見えて浮かび上がった。汗が蒸気と立ち上るようなその背に少女は一瞬見惚れ、男の向かい合うものに注意がいくのが数秒遅れた。
 だから、目が合ったのはその後。
 男の背の向こう、仰向けに転がるそれは年頃の女性のように見えた――なんだか、ひどく見覚えのあるような――ゆっくりと、少女は状況を理解した。
 あれは、あたしだ。
 認識すると同時に、美しい捏造の記憶は霧散して、鬱然たる死の直前の光景がよみがえった。結局、会ったのだ。マッチングアプリで。好みの年上の男性と。そうして……少女は思う。あたしは、運が悪かった。
 ぎしぎしと男の背が揺れる。
 引くのは鋸。浴室の狭苦しい空間はすさまじい熱気に封じられており、その熱気は男の狂騒的な働きと、死せる少女の今まさに解体されつつある肉体の最後の絶叫により産出されているに違いなかった。
 たゆたう少女は泣くのも忘れ、慄然と佇むほかなかったが、ならば浴室に響く嗚咽の音色は何なのか……男だ。淡々と解体をこなしながら、男は滂沱の涙を流していた。
 肉を開き、神秘なる内臓を引き摺り出し、骨を断ち、腱を切り、耳を削ぎ、ありとあらゆる凌辱を尽くしながら、男は終わりのない絶頂の波に揺られている。男は凡夫の愛を理解しない。自分の愛だけを信じた。
 男の愛はいつも孤独だ。理解者がいない。彼の絶頂を知るものは、彼を憎んだ。彼は彼自身を愛するために、必然的に彼自身に供物をささげる必要があった。
 女。女たち。
 彼がそれらを愛しているのは明白だ。それなのに彼が愛の行為を営もうとすると、みな彼を拒む。それまではうっとりと夢中にいるように微笑み、彼を呼び、彼の頭を抱き、唇を合わせ……彼の全力の奉仕を享受しておきながら、いざ彼が愛を行使しようとすると、怯えた顔をする。
 愛しているよ。
 彼は真心からささやいて、彼女らを抱きしめ、そうしてそれを決行する。彼女らの首はみな細くやわらかく、命をたっぷりと孕んでいる。果汁を搾るようにそれを優しく優しく絞め上げて……死の深淵をのぞけば、女たちはみな静まり返った。
 けれど、それは前戯に過ぎない。
 本当のお愉しみはそれからだ。
 やわらかな肉を細かく細かくしてゆく作業。内臓を抜いて、骨を断ち、腱を切り……徐々に形を崩してゆくこの正体不明な肉塊が、何故、こんなにも愛おしいのか。何故、涙が熱く頬を濡らすのか。
 ――おかあちゃん。
 それは蒸発した男の母親の記憶に基づいているのかも知れず、幼い彼の脳に兆した愛しい人はすべて去ってゆくというほとんど完璧な図式に抗うための唯一の手段であるかも知れず、けれどそれを男は意識せず、ゆえに抑圧は症状として回帰する。男は、女たちを愛し、失う不安から最も深く愛し、細かく細かく刻むのだ。
 刻まれて初めて、女たちは男の所有するものとなる。やわらかな肉片となった彼女らを見つめ、男は失禁しそうなほどの安堵につつまれる。
 時に女たちの血をすすり、そのぷるぷると震える肉片をしゃぶった。血まみれの浴室で丸まり、小さな子供のようにたっぷりと眠った。
 目覚めると、血の海に男は蹲っている。
 先ほどまで傍におり、彼に愛をささやいていたはずの少女はもういない。ただ肉片と散る彼女に言葉はおろか吐息もなく、愛もなく、それを受け止めた男はふたたび静かに嗚咽した。
 愛する者は失われる。
 こうなってみれば、それはもう動かぬ真理である。それを真理とするのは男以外の何物でもなかったが、男はあえてその点を見なかった。
 たったひとり肉の海に沈み、男は絶望を直視した。
 少女の肉片をひとつひとつ丁寧に拾いあつめ、ジップロックに詰めてゆく。本当は一片たりとも欠かさず保存しておきたいのだが、それも現実的には無理な話だ。ジップロックに詰めた肉片は毎日、少しずつトイレに流すことになる。
 すべての肉片が集められ、床には大きな骨と、あたたかく輝く内臓と、それだけ威光を放つかのように鎮座する頭部だけが残った。血の海に彩られた髪に手を伸ばし、引き上げると、少女のやわらかな顔がふっと笑ったようだった。
 死に青ざめていたはずの顔はいつの間にかぶよぶよに膨れ、醜い死斑を散らし、生前の顔貌は見る影もない。それでも男は首を抱き、唇にひとつキスを落とした。

 男の夢はいつも姦しい。大小様々な女の息吹にまみれ、あたかも窒息するかのごとく男を喘がせる。男の呻きに合わせて、くたびれたカーテンが震える。男が頭を乗せるのは窓辺のクーラーボックス。彼はそこでしか安眠できないと信じている。
 女のたちの息吹にまぶされた部屋は夜ますます重くなり、べったりと男の全身に粘りつく。男は真冬の極寒でも構わず汗をかき、自分が何故目覚めるのか分からぬままに、眠りの中途でまぶたを開ける。
 頭蓋骨の下で女たちが何事かをささやいている。耳をすませば、帰りたい、とそれは音をなした。帰りたい、帰りたい……何処へ?と聞き返せば、声は一瞬にして静まり返る。後はことりとも音がない。
 男は覚めた意識で、闇を見つめる。模糊たる闇……そこにどれだけの女が溶け込んでいるのか知るのは彼だけだ。女たちの息吹がいっせいにささやいた。
 帰りたい。
 ……何処へ?
 男の言葉に返事はない。闇は正体をなくして黙秘する。
 みな素性も何も違うのに、女たちは声を揃えてどこに帰りたがっているのだろう、男は思う。みんな俺を置いていったくせに……男の歪んだ思考は、彼女らの不在を作り上げたのが自分だと言うことがすでに抜け落ちてしまっている。みんなみんな行ってしまうくせに……つむぐ口調は幼子に似る。
 母の裾を握るようにカーテンの端を握りしめ、男はふたたびまぶたを瞑る。頭蓋骨の下のクーラーボックスは無言。もう何も喋らない……

 ある日、男はふたたび柔らかな肉を手に入れた。しかしそれはまだ愛を交わす前、有り体に言えば解体前、ひとりの女の姿をしていた。
 いつものように抱き寄せれば、女はたやすく身を許した。男の重みを華奢な身体で受け止めながら、ねぇあれ何?……女はクーラーボックスを指さした。
「釣り、趣味だから」
「ふぅん」
 興味なさそうに女はつぶやき、のしかかる男を眺めた。男の背に遮られて電灯の灯はかげり、男の顔は絵に書いたような逆光となっていたが、背後のそれはよく見えた。
 少女。
 青褪めた少女がみずからの首を腹に抱き、真っ赤に染まった制服姿でぼんやりと男を眺めていた。何故自分がここにいるのか思い出せない、そんな表情で、けれどつぶやく言葉は……
「帰りたい」
 少女の唇を読んで、女は音をなぞった。
 男はびくりと震え、一切の動きを止めた。
 帰りたい、その女の言葉を呼び水にしたかのよう、電灯の灯のもとに部屋中にたゆたう濃密な瘴気が集った。薄いのも濃いのも淡いのも密なのもみるみるうちにそれは寄り集まり、馴染み、綯い交ぜになり、いよいよそれ以上膨れようがないほどに重さを増し、ただ一点、男の存在のみにしなだれかかる。
「かわいそうに。何処へ帰りたいの?」
 ぬるつく気配に女は尋ねるが、答えはない。長い年月を経、腐り、互いに混じり合った女たちはすでに言葉を忘れてしまったのかもしれない。粘っこい腕を無数に伸ばし、女たちは男にまとわりついた。
「どうしたの。顔、真っ青」
「……帰ってくれ」
 男はひとことそう呟き、女から離れた。真っ青なのは顔だけではなく、剥き出しの腕も、てのひらも……
「分かった」
 女は素直に頷いて、それから言った。
「あれ、持って帰ってもいい?」
 その言葉の意味が咄嗟に分からず、男は女の指差す先を見つめた。そこには彼の安眠の拠り所、クーラーボックスがあった。
「いいよ」
 何故、そんな返事をしたのか、男にも分からない。
 女は嬉しそうに笑って、計三つにもなるクーラーボックスを、重たそうに引きずりながら玄関を去った。
 ……唐突に訪れた別れに、男は涙するでもなく、ひとひらの感慨も沸かない自分の薄情に今更ながら驚いた。体の良い厄介払いが出来たことに、実のところ浮き立ってさえいるかもしれない。
 女たちの気配の瀰漫した部屋は息苦しいことこの上なかった。その事実にようやく思い当たり、男は口笛でも吹きたい気分になった。
 その気分のまま、男は浴室に向かった。天井裏からいつもの鋸を取り出して、あたかもシャワーでも浴びるかのような気軽さで、解体を始める。不思議なことに痛みは感じなかった。
 愛する者は失われる。
 男がこの世で最も愛するのは他でもない、自分自身だった。

 赤い橋は人の狂気をも呼ぶのだろうか。とかく、この橋での逢瀬のなんとうら寂しく、血なまぐさいことか。平らかなる人々がこの橋を避けるのも何とはなしに頷ける。

 ……さあ、次が最後の話。

#眠れない夜に

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