夢と地獄と

 煮干しを噛んでいた。
 線路のそばの廃屋の横、真昼でも暗いその場所で。
 煮干しは苦く、湿っていた。
 猫の餌用に置かれていたそれを、香也子は無断で失敬して味わうことにしたのだった。
 猫の姿はどこにもなく、影さえささず、それなら私がもらってもいいだろうと香也子はそう解釈した。
 廃屋の片隅にしつらえられた猫の餌場は、香也子の食堂になったのだった。

 綺麗な星が空では光り、まばゆいほどの青空なのに何故瞬く星が見えるのか香也子は不思議に思った。
 太陽が水面の月のように儚く輝き、だからだろうか、呼応して星も光るのか。
 ざわざわと駅の構内のさわがしさが何処からともなく伝わってきて、香也子は旅立ちの時を知る。

 彼女の居場所は一定ではない。
 住処を定めると途端に執着がわくのを彼女は嫌と言うほど知っていた。

 香也子は執着したくない。愛着がわく前に居場所を放棄し、また新たな居場所へとーーそれが香也子の望んだ生き方だ。

 煮干しの最後の一片を口に放り込むと、香也子は腰を上げた。
 お尻についた土を丁寧に払って、再び陽の下へとーー

 空気はからからに乾いている。
 廃屋のあるこの場所だけ、いやに湿っぽいのは何故だろう。
 孤独に涙する廃屋をひととき想像し、夜露をたっぷりと溜め込んだ庭に香也子は別れを告げた。

 路はゆるやかにカーブしている。
 からからに乾いたアスファルトに、廃屋の豊かな緑がしなだれかかり、慈愛深く潤いを恵んでいる。
 すすき、きりんそう……とうに枯れてしまった彼らの骸を彩るのは優しい夜露、太陽の微笑……
 何か胸を掻き立てる焦燥めいた郷愁に香也子は足を止め、呼吸を深くした。
 ……いつか見た景色。
 そう思うのだけれど、それがいつだったのか。
 そもそもその記憶は確かなのか。
 はっきりしているのは、今、眼前にあるひとつの光景……枯野の一端。

 夢は枯野を駆け巡る……

 何処から湧いてきたのか、ふと言葉。
 有名な俳人の辞世の句ではなかったろうか。
 美しい夢の中からやってきて、また夢の中へ……
 溶けいる、と思う。
 夢があの世を指すのなら一体この世は何なのだろう?
 ……地獄、とまた言葉が湧いて、ふっと香也子の目は和んだ。
 地獄。
 この世は地獄。美しい地獄……俳人は鬼籍に入って初めて知るだろう。
 あの世もこの世も同じだということ。
 境界線は人間の頭の中にしかない。
 地獄も夢も同じ……溶けいって初めてそれを知る……
 そのとき、俳人はなんと言っただろうか。
 香也子にはその言葉が分かる気がする。

 夢は枯野を駆け巡り……

 香也子は口ずさみながら、そっと廃屋を後にした。
 しなだれる枯れ草はそのままに、夜露をたっぷりと孕んで、横たわる……


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