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赤い橋で待ち合わせ【B】

 町の片隅にひっそりと佇む赤い橋。そこでの待ち合わせは何故、こうも強く不幸を発するのか。
 ……例えば、こうである。
 男は赤い橋の欄干に腰を掛けている。待ち合わせ時間を過ぎても現れぬ女を待ちながら、あと5分だけ待とう、を先ほどから何回繰り返しただろうか。腕時計の長針はじりじりと盤を滑り、あともう少しでぐるりと一周してしまうではないか。
 ため息とともに、凍えた指先に息を吹きかける。
 季節は冬。
 それも厳冬極まった二月……こんな寒空の下、俺をこんなに待たせるとは一体どういう了見だ。
 思いながらも、男は一抹の不安を感じないでもない。まさか旦那に露見したのではなかろうか、女との破局を意味するそんな事件を思い浮かべ、男は目を瞑り、苦しそうに首を振った。
 男は女を愛していた。
 女が先に誰と結婚していようがそんなこと構っていられる余裕がなかった。女は優しく愛らしく、また非常に薄幸そうだった。
 男の悪い癖で、昔から幸の薄そうな女たちにことごとく心を奪われている。恋の終わってみた結果、果たして女たちが本当に薄幸だったかどうかは措くとして、彼女らは彼と愛を囁いているときはいつもこの世で一番幸が薄そうに見えたのだった。
 幸の薄そうな女を見ると、彼の悪い癖で、俺がどうにか守ってやらなくては、と意味の分からぬ義侠心のようなものがむらむらと湧いてくる。
 実はそれは彼の嗜好に実に忠実な性欲の発露でしかないのだが、彼はそんなこととは露とも気づかず、彼曰くその漢気の言いなりになるのだ。
 過剰な庇護欲を示してくる男に、女たちははじめ非常な警戒心を起こすのだが、男のそれが全くの善意であることを知り、彼女らはみなひとしく胸を打たれる。
 あたかも少女漫画の主人公に自分がなったような気がするのだろう、やがて彼女らは自ら薄幸の佳人を演じ始める。
 そうなればもはや男の独壇場である。いや、女と二人共壇か。そうなるともう男と女を止めるものはなく、事態は劇的に展開する。
 女に男の影がないことはまず珍しく、男と女は人目を忍んで逢瀬を重ねることとなる。そのうちに暗黙の了解として生み出される共通の敵がおり、それは女の交際中の男だったり婚約者だったりあるいは夫だったりした。
 共通の敵は二人の愛を募らせ、燃え上がらせる妙薬となる。男はどこかでそれを知っており、薄幸そうな「他人のもの」を無意識に探しているのかもしれなかった。
 しかし他人のものは他人のもの、と男はどこかでそう思いなしているところがあり、女の婚約者なり夫なりが登場しいわゆる修羅場になるとそっと身を引く傾向がある。
 その頃になると少女漫画の主人公じみた女たちはみなひどく人相が悪くなり、罵詈雑言をもてあそび、まるでメロドラマの敵役のよう、ありていに言えば薄幸さが掻き消える。つまり男の興味の範疇からはみだしてしまうのだった。
 そんなふうにいくつもの破局を経、それでもなお懲りず、男は今日も幸の薄い女を待つのだが、その相手が現れない。
 女とはまだ始まったばかりで、彼女の夫にもこの密事がばれているはずはないのだが……一体、どうしたのだろう? 男は再び、腕時計を見た。
 そのとき、ふらりと女が現れた。
 折しも降りだした粉雪が彼女を耀い、細身の女をますます薄幸そうに見せていた。
 男はほっと安堵の吐息をつき、彼女の一挙一動を見逃すまいと目を細めた。
 女はゆっくりと橋を渡ってくる。なかば蹌踉とした足取りが気になるが、おそらく時間に遅れたのを気に病んで走ってきたのだろう。
 そう考えると男は女がいとおしくてならないのだが、しかし、あれは何だろう……? ふらふらと歩く女の後方に、何か引きずっているような……近づくにつれ、ずるっずるっ……何やら重苦しい音も聞こえてくる。目を凝らせば、何か非常に重そうな灰色の塊が引きずられているようだ……見るだに、異様な。
 残念なことに男は目が悪かった。だから女が相当の至近距離に近づいてくるまで、その灰色の塊の正体を知らなかった。
「……麻沙子さん」
 男の第一声に、女が顔を上げる。
 まるで情事の最中のように上気した顔は桜色、そのなかに涙で蕩けそうになった瞳がたゆたっている。この世の哀れと憐れをないまぜに塗りたくったような、焦点のぼやけた瞳……ああ、それの何と愛らしいことか。男は感激にびりびりと身が震えるのを知った。
「麻沙子さん」
 女を抱きしめて、初めて気づく。
 女の体がぐっしょりと濡れていること。鼻腔をくすぐる女の甘い体臭を凌駕して、臭う鉄錆の凄まじい臭気。
 そのとき、ようやく男は気づいた。女の体がここまで引きずってきた、それ。それが一体、何であるのか……
 男はにっこりと微笑んだ。
 おそらくそれが男が用いた生涯で最もよい微笑だったろう。
 男はこの時ほど自分の性癖を喜ばしく思ったことはなかった。
 男は女を抱きしめた。女の引きずる、かつて彼女の夫だったものもろともに。
 女は声も立てずに、泣いた。
 涙はあとからあとから零れ、彼女がすすり上げるたびに、背中に突き立った包丁が震えて温かな血が噴き出した。その血の奔流を抱きしめた手に感じながら、男は囁いた。
「いいよ、僕も死ぬ。一緒に逝こう」
 女はしゃくりあげながら、腕にぶら下げた包丁を差し出した。
 真っ赤な鮮血で染まった包丁は、女が夫の息の根を止めるときに使ったのだろう。男は素直にそれを受けとり、絶頂の幸福に今にも射精しそうになっていた。
 女は薄幸の極地、己も薄幸の極地、こんなにも望ましい終焉はないではないか。いわば、男は自分の性癖に殉じようというのだった。
 それから数瞬後、赤い橋はさらなる赤で濡れたのだが、それはそれ。

 このように赤い橋で行われる待ち合わせは基本、不幸の色をまとっている。
 不倫関係にある男女がこのような人目に付きそうな場所で待ち合わせること自体非常に不自然で、故にやはり、不幸の予感を無意識に察知した彼らが自ら橋を選んでいるとしか思えないのである。

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