ボードゲーマーに贈る「ワイナリーの四季:ザ・ワールド」の歴史的背景〈南アメリカ編〉


ボードゲーム「ワイナリーの四季」とは

 アークライト/米Stonemaier Gamesより発売されているボードゲーム「ワイナリーの四季(原題:Viticulture)」は、両親から譲られた廃業寸前のワイナリー(ワイン醸造所)を立て直すワーカープレイスメントです。

 「ワイナリーの四季」には基本セットに加えて、ゲームに様々な追加要素を付け足すことのできる拡張セットがいくつか発売されていますが、中でも全プレイヤーが協力し合ってワインの販路を全世界に広げる「ワイナリーの四季 拡張 ザ・ワールド」では、アジア、ヨーロッパ、北米、オセアニア、南米、アフリカの6大陸それぞれに「イベントデッキ」が用意されており、いずれか1つのデッキを使ってワイン生産史をなぞりながらゲームを勧めます。時間が止まったりはしません。

 今回は難易度「通常」の南アメリカデッキを題材に、南アメリカのワイン史を見ていきたいと思います。今回の内容は他の記事よりちょっと長めです。

ヨーロッパ人の南米到達

 アジア編でも触れましたが、ざっくり解説しておくとブドウの原産地は全陸地が繋がっていた頃の西アジアで、氷河期と大陸移動でブドウの繁殖地は分断し、西アジア、東アジア、北米大陸南部に分かれました。
 しかし南米大陸では、ヨーロッパ人がやって来るまでワインはおろかブドウ栽培も行われていなかったようです。北米大陸南部にアメリカブドウが自生していたはずですが、南米大陸までは生息域を広げていなかったのでしょうね。

 北アメリカ編でも触れた通り、スペイン王室の資金援助を受けたイタリア人探検家クリストファー・コロンブスの船団が大西洋を横断し、陸地を発見したのは大航海時代の最中、1492年10月のこと。
 当時、ヨーロッパから海路でアジアを目指す「インド航路」の開拓の先頭に立っていたのは、スペインとポルトガルでした。アジアとの交易ルートは古来から陸路のシルクロードがありましたが、テュルク系王朝のオスマン帝国の勢力拡大により当時はシルクロードが断絶しており、アジアとの新たな交易ルートが求められた時代だったのです。当時のヨーロッパは地中海貿易が盛んでしたが地中海から離れたスペインとポルトガルには恩恵が薄く、ポルトガルはアフリカ南端の喜望峰を経由する東周りのインド航路開拓を進めていました。国王から遠征隊長に任命されたバルトロメウ・ディアス率いる船団は、1488年には喜望峰へと到達しています。

 後れを取ったスペインはポルトガルに追従せず、別ルートのインド航路を開拓すべく、大西洋を越えてインドを目指すコロンブスの計画を資金援助しました。当時、地球球体説はまだ証明されていませんでしたが、説そのものは古代ギリシア時代から存在しており、古代ギリシア時代の学者プトレマイオスの著作『地理誌』が15世紀に翻訳出版されたことで、この頃にはヨーロッパでも広く知られていました。なので地球が球体であれば、大西洋を横断して西へ向かえばアジアに到達するはずだ、と言う訳ですね。
 そして実際に陸地を発見したコロンブスは、そこをインドだと思い込みますが、地球一周の大きさからコロンブスが発見した陸地がインドなのか疑問を呈する声もありました。
 と言うのも、プトレマイオスの『地理誌』では、緯度1度を60と2/3ローママイル(89.7km)としていたからです。またイスラーム世界は古代ギリシアから地球球体説を受け継いでおり、メッカの方角を正確に測る必要性から数学が発達していたこともあって、9世紀頃にはペルシア人学者アル・ファルガーニー(ラテン語形でアルフラガヌスとも)が、緯度1度を56と2/3アラビアマイル(111.8 km)と算出していたそうです。ちなみに緯度90度で約1万kmなので実際の緯度1度は約111.1kmと、アル・ファルガーニーの値は当時としてはかなり正確で、9世紀のイスラームの数学者凄いですね。
 コロンブスはこれらの数値を取り上げ、アル・ファルガーニーの数値を雑に「アラビアマイル」から「ローママイル」に変えて「緯度1度は56と2/3ローママイルで、地球はプトレマイオスが考えたより小さい」と主張したんだとか。こんな感じで彼は死ぬまで、自身が発見した陸地をインドだと信じていたようです。

 スペインが資金援助したコロンブスの「インド到達」の報に、今度はポルトガルが慌てます。実はコロンブス、スペインより前にポルトガルに資金援助をお願いしてたんですが、ポルトガルはそれを断ったので尚更でしょう。スペインとポルトガルは隣国なので、インド航路開拓競争でただでさえ危うい関係が更に不安定になり、そこで1494年にトルデシリャス条約が締結されます。条約の内容はざっくり言えば、西経46度37分を境にコロンブスが発見した「新世界」の東側はポルトガル、西側はスペインの領土になりますよ、と言うもの。
 実際のところ、境となった西経46度37分はグリーンランドのほぼど真ん中を縦に貫く子午線で、北米大陸の全土と南米大陸の9割がたは西側に位置し、すなわち「新世界」はほぼスペイン領土でした。と言っても当時は北米大陸も南米大陸も海岸線の分からない未知の大地だったので、ほぼスペイン領土だったのは結果論でしょう。
 1500年にはポルトガルが派遣したペドロ・アルヴァレス・カブラ率いる船団が大西洋を西へ進み、「新世界」のポルトガル領土に陸地を発見します。彼はこの陸地を探検するうち、当初は島だと思っていた陸地が大陸であることに気づきます。これがヨーロッパ人による南米大陸の「発見」です。

 その後、1522年にマゼラン艦隊が地球一周を完遂したことで、西経46度37分の「東側」と「西側」が繋がってしまい、スペインとポルトガルの関係が再び危うくなります。
 奇しくも両国は当時、香辛料の一大生産地であるインドネシアのモルッカ諸島の領有を巡って熾烈な争いを繰り返している最中で、後にオランダやイギルスもこの領有権を巡る争いに加わったことからも、モルッカ諸島がどれほど彼らにとって価値ある場所だったのか伺い知れます。
 しかし1525年と翌1526年に両国の王が、互いの妹と結婚し縁戚関係を結んだことで歩み寄り、繋がった「東側」と「西側」を再び分けるべく、1529年に東経144度30分の子午線をスペイン領土とポルトガル領土の境とするサラゴサ条約が締結されました。この子午線はニューギニア島のほぼ中央を通っていますが、現在のニューギニア島は東経141度線を境に西がインドネシア、東がパプアニューギニアとなっており、若干のズレがあります。

ブラジルとワイン

 南米大陸にブドウが持ち込まれたのは1532年、ポルトガルのマルティム・アルフォンソ・デ・ソウザ提督がブラジルに持ち込み、現在のサンパウロ州クバタン市付近の海岸に植えたものが最初だそうです。このときソウザ提督の部下のブラス・クーバスがブドウ栽培を監督したそうですが、あまり上手くいかなかったとか。そこでクーバスはブドウ栽培に適した地を求めてタトゥアペー市へ移りましたが、こちらも結果は芳しくなかったようです。
 ちなみにソウザ提督は時のポルトガル国王ジョン3世の従兄弟で、かのフランシスコ・ザビエルが来日する少し前の1541年にザビエルと共にインドのゴアへ派遣された人物です。またブドウ栽培を監督した部下のクーバスは、1546年にサントス市を創設した人物としても知られています。

 しかし南米で最も古いワイナリーはブラジルではなく、1548年にスペインのフランシスコ・デ・カラバンテス司祭がペルーのイカ・ヴァレーに設立したものだそうで、南米で最初にワインが醸造されたのは1551年のことだそうです。またチリで最初のワインは、1555年に記録が残っているとか。
 ブドウの木が育つのに数年かかることを考えると、実際のところはイカ・ヴァレーに1548年に植えられたブドウが育ち、そのブドウを使ったファースト・ヴィンテージ(最初の収穫年)が1551年ではないかと思いますが、確認はできませんでした。

 熱帯気候が国土の90%を占めるブラジルは、適度に涼しく水捌けのよい地を好むブドウと相性が悪く、16世紀当時からブドウ栽培は困難だったようです。山岳地帯の多いペルーやチリの方がブドウ好みの気候であり、ブラジルに先行してワイン産業が勃興したのでしょう。
 また、ブドウ自生地である北米大陸にブラジルより近いコロンビアやベネズエラですが、山岳地帯にワイナリーがあることは確認できましたが、2024年現在も件数は少なく、現地でも「国産」ワインは珍しいそうです。これらの国もブラジル同様、低地はブドウ栽培に適さない熱帯雨林気候であることが大きく影響していると思われます。

 1626年、イエズス会のロケ・ゴンサレス・デ・サンタ・クルス教父がブラジル最南端のリオ・グランデ・ド・スル州にスペインのブドウの苗を持ち込み、ブラジルにおけるワイン造りのパイオニアとなりました。ロケ教父は先住民族を教化すべく各地に伝道所を設立しましたが、1628年に先住民族に殺害され、彼らの伝道所も破壊されたそうです。
 当時の詳細は確認できませんでしたが、ヨーロッパでは教会にワイナリーが併設されていたことを考えると、ロケ教父が設立した伝道所にもワイナリーが併設され、そこにブドウが植えられたと思われます。植えられたブドウのその後は分かりませんでしたが、伝道所は先住民族をスペインやポルトガルの奴隷商人から保護もしていたそうで、保護された先住民族がブドウ栽培やワイン醸造の知識を得る可能性はあったかも知れませんね。それとも伝道所が破壊された際に、ブドウ畑も壊滅したのでしょうか。
 なお、この頃にイエズス会がブラジル各地に設立し先住民族に破壊された伝道所の跡は、世界文化遺産「グアラニーのイエズス会伝道所群」となっています。グアラニーとはブラジル先住民族の一部族であるグアラニー族のことで、彼らは農耕民族だったそうですが、ブドウやワインを受け入れたのかは結局分かりませんでした。

 その後、金鉱山の発見やアフリカから輸入した黒人奴隷労働による砂糖のプランテーションなどで、ブラジルはポルトガルにとって「金のなる植民地」となりましたが、19世紀まで安定したブドウ栽培ができなかったようです。詳細は分かりませんでしたが、要因はいくつか考えられます。持ち込まれたブドウがヨーロッパ品種のためブラジルの湿潤な気候に弱かったこと。北米大陸と異なりアメリカブドウが自生していなかったため、現地の環境に耐え得る品種との交雑が起きなかったこと。ポルトガル人は元々農耕が得意ではなく、ブラジルに適したブドウの品種改良が見られないこと。先住民族の抵抗により有識者(兼キリスト教伝道師)が殺害されていること。
 あるいはポルトガル本国が長期保存に耐え得るポートワインの生産国だったので、ブラジルでのワイン醸造はそこまで重視されていなかったのかも知れません。実際、1703年にポルトガルとイギリスで締結されたメシュエン条約により、ポルトガルはワインの輸出量が増え、18世紀末までワイン産業は成長の一途を辿ったそうです。しかし、それに伴いポートワインの品質の劣化や産地偽装ワインが横行するようになり、1756年には当時のポルトガル宰相・ポンバル侯爵セバスティアン・デ・カルヴァーリョが、ポートワインの産地であったアルト・ドウロ地域に、ブドウ栽培地域とワイン生産・貿易に規制を設けたとか。これが世界初の原産地呼称制度だそうです。
 更に、1777年に即位しポンバル侯爵の独裁を払拭したポルトガル女王マリア1世は1785年、植民地での製造活動を禁止しました。この「製造活動」にはワイン醸造も含まれていたため、ブラジルのワイン産業は更に停滞することになります。

 しかし1786年、イギリスとフランスの間でイーデン条約が締結され、フランスの穀物やワインが自由貿易の対象になったことで、ポルトガルのポートワインの地位が脅かされるようになります。その後1789年にフランス革命が勃発、革命政府はイギリスの良質な工業製品から国内産業を守るべく1793年にイーデン条約を破棄し、革命時に活躍したフランス軍人ナポレオン・ボナパルトが1804年に帝位に就くと、1806年にヨーロッパ全土からイギリス製品を締め出すべく、フランス国内および同盟国にイギリスとの通商を禁じるベルリン勅令を発布します。いわゆる「大陸封鎖令」です。
 非同盟国で中立だったポルトガルは勅令を無視してイギリスとの交易を続けたため、ナポレオンの怒りを買います。ナポレオンはスペインと1807年にフォンテーヌブロー条約を結び、フランス軍がポルトガルを占領した暁にはフランスとスペインでポルトガルを分割統治する約束を取り付け、ポルトガルに侵攻したのです。
 時のポルトガル摂政で女王マリア1世の四男ジョアン・マリアは、ナポレオンのポルトガル侵攻をいち早く察知し、イギリスの支援もあって、ポルトガル王室はブラジルへと避難します。1808年にポルトガル王室がブラジルに到着するとワインの製造が許可されることとなり、ここに至ってブラジルワインの歴史はようやくスタート地点に立ったと言えるでしょう。

 ポルトガル王室が置かれたことでブラジルは著しい発展を遂げ、またポルトガル人でも黒人奴隷でもない外国からの移民も受け入れるようになりました。その流れは1820年に王室が帰国し、ブラジルがポルトガルから独立した1822年以降も続いたようです。
 こうしてやってきたイタリア移民が1875年、サンタ・カタリーナ州に設立したワイナリーが、ブラジル最古のワイナリーだそうです。1899年にはリオ・グランデ・ド・スル州へ入植したイタリア移民がブラジル初のスパークリングワインを造るなど、ブラジルワインの生産者は現在でもイタリア移民の割合が高いそうです。
 19世紀後半と言えば、ヨーロッパ編でも触れた通り、1863年のフランスを発端にフィロキセラ禍が巻き起こった時期。イタリア国内でフィロキセラが最初に確認されたのは1879年ですが、自身のブドウ畑がいつ枯れるか不安に駆られたワイン生産者が少なくなかったんでしょうね。
 彼らは故郷イタリアやブラジルの気候に合ったアメリカブドウの交雑種を育て、ブラジルのワイン産業の発展に寄与することになります。

ペルーとワイン

 ペルーに最初のブドウの苗が持ち込まれたのは1531年のこと。インカ帝国を征服したことで知られるスペイン軍人フランシスコ・ピサロがカナリア諸島のブドウの苗をペルー上陸時に持ち込んだそうです。……ってあれ、ブラジルに1532年に持ち込まれたのが最初じゃなかったの???
 その後、前述の通り1548年に南米で最初のワイナリーがスペインのフランシスコ・デ・カラバンテス司祭によりイカ・ヴァレーに設立され、1551年には南米で最初のワインが醸造されます。以前はインカ帝国を築いたケチュア族がコカの葉を栽培していた場所だったとか。しかし醸造されたワインはスペイン王室へ献上するためのもので、現地の需要を満たすことは出来ず、スペイン本国からの輸入では不足分を賄えなかったため、スペインとインカの混血メスティソである歴史家インカ・ガルシラーソ・デ・ラ・ベーガは「1554年と1555年にはペルー各地でワインが非常に不足していた」と残しているそうです。

 その後は順調にワイン産業が発展していたようですが、スペイン本国はペルーワインより本国のイベリコワインを売りたかったようで、1569年までにアメリカ大陸でのワイン生産に制限を課し、1595年にはアメリカ大陸でのワイナリーの新規設立を禁止します。これは間接的に、ペルーワインがイベリコワインを脅かす存在になっていたと言う意味なのでしょう。更にイベリコワインの市場拡大を狙って、1614年にはパナマへの、1615年にはグアテマラへのペルーワインの輸出を禁止したそうです。
 しかし、これらの規制は現地ではあまり守られていなかったようで、スペイン本国がアメリカ大陸で需要を確保できた市場はメキシコだけだったそうです。

 1545年、現在のボリビアにあるセロ・リコ山でスペイン人が銀鉱を発見し、その採掘拠点として1546年にポトシ市が設立。18世紀後半まで長期にわたるシルバーラッシュが起き、その莫大な産出量からこの頃に銀価格の大暴落まで起きたそうです。

 ポトシ市に多くの人々が押し寄せたことでペルーワインの需要も増え、ポトシ市では給料としてワインが支払われたこともあったとか。この頃にはペルーの首都リマ市でもペルーワインが流通していたそうで、ペルーのワイン産業は順調に発展していました。

 しかし1641年、ペルーとチリに対しスペイン本国へのワイン輸出が禁止されると、余ったブドウ果汁から蒸留酒「ピスコ」が作られるようになります。
 更に1687年、マグニチュード8.2と言う大地震がペルーを襲い、各地で多くのワインセラーとワインが失われました。この地震によりペルーのワイン産業は衰退し、代わりにピスコの需要が伸びていきます。1764年にはペルー産ブドウ飲料の90%がピスコで占められるようになったそうです。そのため1767年にイエズス会が、ペルーに持っていたブドウ畑を高値で競売にかけたそうですが、新たなオーナーはワイン醸造の知識と技術に乏しかったらしく、ワインの生産量は減少したそうです(詳細は分かりませんでしたが、恐らくピスコ用のブドウ畑になったのでしょう)。
 専門知識がないのでよく分かってないんですが、どうやらワインとピスコでは使われるブドウの品種が異なるようで、またワインの蒸留酒であるブランデーより、ピスコは短期間で製造できるみたいです。
 その後、ペルーはサトウキビ栽培が盛んになりサトウキビを原料とするラム酒の製造も18世紀後半に解禁されたそうで、ピスコ用のブドウ畑も経済的危機に陥ります。となればピスコより供給量の少ないワイン産業の状況も察せようと言うもの。19世紀には綿花の栽培が推し進められたこともあって、ワインはチリからの輸入に頼るようになり、ペルーのワイン産業は現在でも低迷したままだそうです。
 しかしペルーに設立された南米最初のワイナリーは2024年現在も営業しており、ペルー大使館の公式行事でも振る舞われるブランドとして世界に広く知られています。

チリとワイン

 チリで最初のブドウは、ペルーで最初のワイナリーを設立したスペインの修道士フランシスコ・デ・カラバンテスが1548年、ペルーからチリ、現在のタルカワノ市に持ち込んだものだそうです。奇しくもこの頃、クスコの奥地で野生のブドウが発見されたそうで、実は先住民族が利用していなかっただけで南米大陸にもブドウが自生していたんですね。このとき、南米征服者の一人として知られるスペイン人フランシスコ・デ・アギーレがブドウ栽培を監督し、1551年には最初のブドウを収穫しているそうです。
 この頃には同じく南米征服者の一人として知られるスペイン人ロドリゴ・デ・アラヤも、サンティアゴ近郊のセントラル・ヴァレーでブドウ栽培を行っていたそうで、スペインはセビリアにあるインディアス総合古文書館で発見された資料によると、チリで最初のワイン生産者としてアラヤの名が記されているそうです。
 記録によるとチリで最初のワインが1555年と言うのは先述した通りですが、これがいずれのワインだったのかは分かりません。ただアラヤが最初のワイン生産者と言う記録が残っていることから考えれば、1555年のワインはアラヤが作ったものだったのかも知れませんね。

 チリでは1536年から300年以上にわたって、先住民族マプチェ族とスペイン人征服者による「アウラコ戦争」が繰り広げられましたが、スペイン側の軍資金は1545年に発見されたペルーのセロ・リコ銀山で賄われていました。そのためスペイン軍は現地に常駐しており、彼らのおかげでチリワインの需要は保証されていました。何よりスペイン本国のイベリコワインは長期保存に耐えられず、速度の遅い帆船の輸送ではチリに到着した頃には酸っぱくなっており、積載量も需要に対して十分ではなかったようです。
 1641年、ペルーとチリに対しスペイン本国へのワイン輸出が禁止されると、ペルーでのワイン産業は衰退しましたが、チリでは前述の事情もあり、規制をガン無視してワインが作り続けられました。1795年には、ペルーのリマ市へチリワインが5000個のbotijas(日本語訳が出てこないんですが、甕の画像がヒットするんでワインの入った甕でしょうか?)で輸出された記録が残っているそうで、この頃からチリワインはペルーワインを上回る評価を得るようになったみたいです。

 1847年、チリの外交官ドン・シルヴェストレ・オチャガヴィア・エチャサレタはヨーロッパ各地を歴訪し、特にフランスのワインに興味があったようでフランスでワインの醸造法を学んだ後、1850年にフランスのボルドー品種のブドウの苗と専門家を伴って帰国します。翌1851年には自らのワイナリーを設立し、フランスの著名な専門家を招いてチリワインの品質向上に尽力します。
 オチャガヴィア以前のチリワインは伝統的なスペイン系の品種でしたが、彼がフランス系の品種を導入したことでチリワインは革命的な品質向上を遂げました。そのためオチャガヴィアは「現代チリワインの父」とも呼ばれています。
 奇しくも直後、1863年のフランスを発端に全世界のブドウ畑がフィロキセラ禍に襲われますが、チリは地形や気候から害虫の影響を受けにくいためフィロキセラ禍から免れることができました。そのため、フランスの多くの地域から失われたフィロキセラ禍以前の「プレ・フィロキセラ」品種がチリに残ることにもなったそうです。1994年には、フランスで絶滅したブドウ品種がチリのワイナリーで再発見されたこともあったとか。
 また、フィロキセラ禍によりヨーロッパ各地のワイン産地が壊滅的被害に遭ったことで、この時期フランスから移住したワイン生産者も多かったようで、チリワインの需要も伸びることになり、チリのワイン産業はこの時期に大いに発展したようです。

アルゼンチンとワイン

 アルゼンチンでは1541年、ウルグアイとの国境に位置する、パラナ川とウルグアイ川の河口部、大西洋に面したラプラタ川の沿岸に最初のブドウの苗が植えられたそうですが、一帯は湿潤かつ亜熱帯であったためブドウは育ちませんでした。ヨーロッパ人、だいたい最初に暖かい水辺沿いにブドウの苗を植えて枯らしてません?
 1542年には、ペルーで栽培されていたブドウから採られた種をサルタ地方に植えたそうですが、その後どうなったかを見つけることはできませんでした。ブドウの木を種から育てるのはかなり難しいらしいので、結果はお察し下さいと言ったところでしょうか。
 そして1556年、スペインではイエズス会に並ぶ修道会メルセス会の神父フアン・セドロンがチリのセントラル・ヴァレーから持ち込んだブドウの苗をブエノスアイレス近郊に植え、最初のワイナリーを設立しました。
 そしてアルゼンチン各地に修道院が建てられるとブドウ畑も併設され、ブドウ栽培とワイン醸造も広まっていきます。1557年、イエズス会によりサンティアゴ・デル・エステロ州に最初の商業ワイナリーが設立され、1560年代初頭にはメンドーサ州、1569年から1589年にはサンフアン州でも相次いでワイナリーが設立され、1739年の国勢調査ではメンドーサ州に120のワイナリーが確認されているそうです。

 その後、アルゼンチンは19世紀初頭にスペインから独立しますが、各州ごとの対立が激しく、内戦状態に陥ります。しかし周辺国との対立もあって連合を結成、1853年アルゼンチン憲法が制定されると、憲法に基づいた自由貿易によって輸入製品に負けた国内産業が大打撃を受けます。

 1853年、アルゼンチン初の農業学校がメンドーサ州に設立。1862年からサンフアン州知事を務めたドミンゴ・ファウスティーノ・サルミエントは農業を含めた各種産業を奨励し、農業振興のため農業学校の校長としてフランス人農学者ミゲル・エメ・プジェを招聘しました。このときプジェはフランス系のブドウ約120種を持ち込み、そこから今日のアルゼンチンの代表的なワインの品種であるマルベック種が広まったそうです。
 ペジェ以前のアルゼンチンワインは、チリと同じくスペイン系の品種でしたが、プジェの持ち込んだ知識と技術によりアルゼンチンワインの品質も向上。チリと同じく19世紀後半のフィロキセラ禍の影響を受けなかったこともあってか、1889年のパリ万国博覧会ではアルゼンチンワインが初の銅メダルを獲得しました。
 ちなみにサルミエントは、サンフアン州知事を務めた後は駐米大使を、その後に第7代アルゼンチン大統領に就任し、教育の振興やインフラ整備などでアルゼンチンの近代化を推し進めました。

 1901年には、アルゼンチンで初となる醸造学校がメンドーサ州に設立され、ワイン産業はアルゼンチン全体に広がっていったようです。しかしアルゼンチン国内の政情がなかなか安定せず、軍事政権化したことで国際的に孤立し、政府がテーブルワインの生産を国家プロジェクトとして推進していたこともあって、アルゼンチンのワイン産業は世界のワイン市場から取り残されてしまいます。
 アルゼンチンのワイン産業が飛躍的発展を遂げるには、アルゼンチンが国際社会に復帰する1990年代まで待たなければいけませんでした。

南アメリカデッキを振り返る

 南アメリカ各地のワインの歴史を振り返ったところで、ワイナリーの四季の南アメリカデッキの中身を確認してみましょう。

  1. 最初の苗木

  2. スペインによる征服→チリワイン

  3. 修道士と移住者

  4. 最初のブドウ苗栽培

  5. 海外のコンサルタント

  6. 大規模栽培→トップを走る女性起業家

  7. 新しいテクノロジー

  8. 生産量の枠

 また、南アメリカデッキには7枚の人物カードが付随しており、南米のワイン産業史に足跡を残した彼らを手に入れることで、そのカード能力による支援を受けることができます。その7名は以下の通りです。

  • アンドリュー・ヴィスカウンツ

  • アントニオ・デ・アルティガ

  • セドロン神父

  • フランシスコ・ピサロ→イシドラ・ゴエニーチア

  • エルナン・コルテス→ドン・シルヴェストレ・オチャガヴィア・エチャサレタ

  • マクセル・アマト

  • ミッシェル・エメ・プジェ

 うちフランシスコ・ピサロとエルナン・コルテスは南米大陸の「征服者」であり、国境を越えて遊ばれるゲームには不適切と言う指摘があったため、南アメリカデッキのイベントカードおよび人物カードの、ピサロはゴエニーチアに、コルテスはオチャガヴィアに差し替えられました(文面に変更があっただけで、カード能力は同一です)。
 ちなみに英語版は第二版以降は差し替え済になるとアナウンスがあったので、日本語版は初版から差し替え済になると思ってたんですが、日本語版初版は「征服者」のテキストになっており差し替え用カードが同梱されていました。

 フレイバーのタイトルからは分かりにくいんですが、主にチリとアルゼンチンのワイン史上で起きた重大事件が列挙されています。
 「最初の苗木」はアルゼンチンにブドウを持ち込んだセドロン神父について、「最初のブドウ苗栽培」はプチェがアルゼンチンに持ち込んだフランス品種のブドウについて、「チリワイン」はオチャガヴィアのワイナリーについて触れられています。
 「修道士と移住者」は最初期のヨーロッパ移民の尽力、「生産量の枠」はスペインが南米に課したワイン生産制限についてです。
 「海外のコンサルタント」では南米ワインの水準を引き上げるために招かれた二人のコンサルタントについて触れられていますが、その二人、アンドリュー・ヴィスカウンツとマクセル・アマトについて上手く調べることができませんでした。教えて偉い人!!!
 「トップを走る女性起業家」ではイシドラ・ゴエニーチアについて触れられています。彼女は19世紀後半に活躍した実業家で、彼女は夫と共に1856年にワイナリーを立ち上げ、夫が1873年に亡くなると経営を引き継いで労働環境の改善やワイン生産の標準化などを行い、南米でも知られる起業家となったそうです。夫妻のワイナリーは2024年現在も子孫によって経営されています。
 「新しいテクノロジー」は、海外からの移住者が南米のワイン産業にもたらしたものについてです。

 南米大陸でワインと言えば、2024年現在はチリとアルゼンチンが有名ですが、北米大陸の自生地に近いブラジルやペルーのワインの歴史を調べてみるとなかなか奥が深く、思いがけず長くなってしまいました。特に文章量の目安や制限を考えずに書いているせいもありますが、読みやすいかどうか若干心配してもいます。
 でも北アメリカ編ではほぼアメリカ合衆国オンリーになってしまって、メキシコ辺りの中米にはまだ触れてないんですよね。いや南米大陸への到達までが長くなったのもあるけど。
 ワイナリーの四季ザ・ワールド(こう書くと非常にスタンドっぽい)には番外デッキもあるので、番外編として漏れや補足を書くべきですか?


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