2024/02/05 スミレとプリン

 木曜日に主治医と長い話をした。土曜日の診療を予約すると混雑でどうしても流れるように診察が終わってしまうが、予定が変わって木曜日の最終枠で診察を受けた。土曜日だったら、お互い早めに話を切り上げようという力がはたらくが、今回それはなかった。彼とこんなふうに話すのは久しぶりだった。私は、彼が一人の人間として話をしてくれたことが嬉しかった。

  「小林秀雄のスミレの話じゃないですが、」と彼は話し始めた。私はその、小林秀雄のスミレの話を知らなかったのでふんふんと聞いていた。

言葉は眼の邪魔になるものです。例えば、諸君が野原を歩いていて一輪の美しい花の咲いているのを見たとする。見ると、それは菫(すみれ)の花だとわかる。何だ、菫の花か、と思った瞬間に、諸君はもう花の形も色も見るのを止めるでしょう。諸君は心の中でお喋りをしたのです。菫の花という言葉が、諸君の心のうちに這入って来れば、諸君は、もう眼を閉じるのです。それほど、黙って物を見るという事は難しいことです。(中略)言葉の邪魔の這入らぬ花の美しい感じを、そのまま、持ち続け、花を黙って見続けていれば、花は諸君に、嘗て見た事もなかった様な美しさを、それこそ限りなく明かすでしょう。画家は、皆そういう風に花を見ているのです。

小林秀雄『美を求める心』

 主治医いわく、定型の人がこのようにして「菫の花」とわかったとき「自然に」捨象することを、ASD傾向のある人はうまく捨象できないのではないか、とのことだった。彼は「縮減」と付箋に書いてみせた。それは、國分功一郎・熊谷晋一郎の共著「責任の生成」で書かれていた「まとめ上げ・絞り込み」に対応する。ふつう、人間は身体が受け取る大量な情報を、抽象化・パターン化したり、重要なことにフォーカスしたりして理解する。それがうまくできずさばけないのが、ASD傾向のある人間の特徴ではないか、という話だった。

 私はどちらかというと、物事を極端に抽象化して考えてばかりなのだが、もしかすると、私の身体の現象として起こっているのは、この「縮減/まとめ上げ・絞り込みの困難」、つまり、スミレの花を見て、それが自分の知っているスミレと同一のカテゴリのものであると、頭でわかっていたとしても、実は処理できていないということなのではないか、という仮説が導かれた。

 一方で私はものすごくせっかちだ。パターン化して考えることも、大好きだ。だから主治医は、私がASDであることについては保留した。

 帰り道、主治医の言葉を振り返りながら、私はパートナーとのやりとりを思い出していた。もともと私は花を見るのが好きで、散歩をしていて道っぱたの花を見つけるとずっと見ているのだが、それは小林秀雄が言っていた美の追求とは違って、なんというか、目の前の情報に「とらわれて」いるような感じなのだ。パートナーはそれを私の良いところだと言っていたが、私は単にとらわれているだけなのかもしれない。

 一方で、「まとめ上げ・絞り込み」について、極端な結論を出してしまうこともある。
 友達(彼女も非定型だ)が「責任の生成」を読み始めてくれたので、その話をLINEでしていたのだが、私たちは、身体が感じている不快さを、短絡的に「死にたい」に収斂させていないか、という話題になった。お腹がすいて血糖値が下がっているとか、頭が痒くて集中できないとか、そういう細かい情報を無視できないがために?一足とびで「死にたい」に結びつけて理解してしまうクセがあるのではないかと。

 先日、プリンを食べたら希死念慮が消えたと書いたけど、これなんかはまさにそうだと思う。血糖値が足りてない不快さが、不安や鬱と結びついていて、案外身体の声に耳を傾けると、解決方法があるのかもしれない。

 彼女は、資本主義社会を内面化している可能性についても指摘・批判していた。資本主義が提示する、不満を、われわれは知らず知らずに内面化していて、身体が発する声をかきけして、新たな不満を無限に生み出している可能性。それに対するソリューションを資本主義が提供する、加速の地獄。

 やはり國分功一郎が言っていた「消費ではなく浪費を追い求める」ということが大事なんだと思う。私の身体はいったい何を求めて/欲望しているのか、それに耳を傾けて、しっかりと満たすこと。それは、資本主義が提示するカタログから選ぶのではなく、自分でクリエイトしなくてはならない。

 さて、スミレの話と彼女の話を経て、私の意識にも少し変化があった。
 猛烈な寒さが関東を襲っている。私の心も傾いてきて、どうしたものかと思った。
 まず、自分の頭の中が情報でいっぱいであることを自覚した。くつろげる自室にいても、そこはアフォーダンスの嵐だ。洗いかけの食器や、ぐちゃぐちゃの洗濯物が、私をなんとかしろと自分を責めているように感じてしまう。でもその声は無視していい。問題は、私の身体が何を求めているかだ。
 ホッカペに寝転がって音楽を聴いてみた。しばらくすると、だんだん気分がマシになってきた。私は、休みたかったのだ。

 情報量を意図的に減らすことと、自分の身体の声に耳を傾けること。そんなことがこの社会でどれだけ難しいことか、と考えつつ、今日みたいな雪の日は、適度にサボってケアにつとめよう、なんて思った。

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