見出し画像

505号室からの展望  空色杯応募作品

「私はいま、事件の現場に来ています」
 まどろみから目覚め、ダブルベッドの枕元に半開きになっているノートパソコンを上まで開ける。何も打たれていない白い画面が立ち上がる。
 なぜ幸せで、凡庸なのだろう。
 恵まれて育ち、優しい夫を得て、中の上程度の暮らしをしている。容姿も自分調べではそのレベルだ。
 友も穏やかで犬も懐き、周りには想定内の事件しか起きない。
 悩みは一つだけ。文才がないことだ。太宰や梶井みたいに破れかぶれで、賢治みたいに純な文章が書きたいのに。
 箔をつけよう。
 私はパソコンをぱちんと閉じて胸に抱えた。陽の差すリビングの出窓を押し開く。夫がローンを組んだ中層マンションの最上階に私は住んでいる。
 窓から両手をぬっと突き出し、私は最新のノートパソコンを手ばなした。お座りをした犬が首を傾げる。
「んぐッ」
 と喉に詰まるような声がして、複数の悲鳴が上がった。深呼吸を繰り返して鼓動を鎮めている内に、テレビリポーターがマイクで喋る声が聞こえてくる。サイレンの音が近づく。
 私はこれを望んでいたのか、いなかったのか。
 夫好みの部屋着姿のまま、もふもふの羽毛布団に潜り、私はまどろみに落ちる。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?