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相模原事件について介護職だった自分が当時思ったこと(上)

相模原事件の報道を見た時、「起こるべくして起きてしまった」と思った

 相模原事件からもう4年が経過したことを受けて、もう4年が経過するのかと月日の早さに愕然とすると共に、当時介護職として働いていた自分があの事件の報道を受けて感じたことのショックを改めて書いておきたいと思うに至り、筆をとりました。あの事件について思いを語るのは、正直なところ、とても勇気のいる事です。というのは、あの事件が起きた時、事件について、「信じられない」と涙ながらに語る職場の同僚、上司が居る中、僕は「ああ、ついに起こるべくして起きてしまった。」と思ったからです。当時も今も、植松被告がやった事は決して肯定されないという気持ちは変わりません。絶対にあってはならない事なのです。しかし、一個歯車がかけ違っていれば、自分が植松被告のようになっていた可能性も否定しきれないのです。


介護職としてあの事件について語るには整理も勇気も必要だった

 しかし、だからこそ、いつか自分が語る必要があるとも思っていて、ずっと悩んできました。幸い僕は、思春期の頃など、家の中が辛かった時期も経験していますが、今となっては、とても恵まれた家庭環境にいますし、当時の職場に理解者が居て、僕の感情を受け止めてくれる人がいたりと、要所要所で人の支えがありました。だから、何とか誤った方向に気持ちが向きそうになっても、ギリギリ踏ん張って、自分なりに頑張ってこれたと思っています。しかし、本当に運が良かったと思っています。

 事は介護の現実が辛いとか、そういう次元の話ではない。もっと積み重なったものがあるはずだというのが僕の思いです。もしやすると、僕らが生まれる前から、長い時間をかけて、この経路は築かれていたのではないかと思っています。

植松被告の思想も、やった事も絶対に許せないけれど、植松被告を肯定する人が現れてしまうことは、想像に難くない

 この事件を語るにあたり、植松被告の供述が記録された『開けられたパンドラの箱』も読みました。そこには、彼の知人が植松被告に対し、「さと君は間違っていない」と肯定する声かけをしている人がいることが書かれていた事が個人的には印象的でした。

「植松被告も間違ったことを言っているし、断じて受け入れられないけれど、植松被告が正義とされてしまう環境で生きてきた人たちがいる」

と思いました。

きっと、植松被告を肯定した声かけをする人の中にも、色々なタイプの人がいるとは思いますが、「生産性のない人間はいらない」という発想が大なり小なりあると思います。

植松被告と同い年の自分は、彼の思想を育む価値観を生む環境があったのは何となくわかる気がする

 奇しくも、植松被告と僕は年齢が同じでして、被告の知人も恐らく、僕と同世代でしょう。全てとは言いませんが、植松被告が生きた空間の一部分を僕は共有しつつあるると思っています。植松被告と同じく、平成初期に生まれ、学校生活を生きてきた僕は、僕らの世代なりの残酷な学校生活というのを知っています。僕たち「ゆとり世代」が生きてきた学校生活では、みんなで同じことをしなければならない「協調性」が重んじられていました。

 「協調性を育む」という名目で、学校は、強制的なイベントをたくさん用意していて、仲良くなれない相手同士でも長時間拘束する仕組みになっています。「協調性のある空間」を形成するためには、悲しいかな、異質なものを排除する必要が出てきてしまうのです。本当の協調性というのは、異質なものも包摂しながら何とか共存していくという事になると思うのですが、残念ながらそうではないのです。「みんな」で何か嫌なことでも一緒にやっていかなければならなくなると、個々にクラス内で集団を作り、「仲間」を形成します。仲間形成のためには、ノリが共有できるなどの同質性が大事になってきます。

 同質性のある人は「仲間」、それ以外は興味も湧かない「その他」扱いされるのが常で、その他扱いにされると、スクールカーストでは下位に位置づけられてしまいます。下位に押し込められた方は、嫌なことを押し付けられたり、いじめられる方向に向かっていきます。

社会だけでなく、被害者自身すら、被害にあった自分を責める構図

 しかし、疑問があることでしょう。たとえば、自分が虐げられる事について、不当だと思う気持ちが芽生えるのではないかとか。確かに、そういう声をあげる人もいるでしょう。しかし、そのうち、状況を仕方ないと受け入れてしまうようになる程空気感が強いように思います。悲しいことに、排除された側が反抗したり、反発すると、「同質的かつ、協調的な社会の破壊者」となり、「絶対正義」とまでに対抗する「絶対悪」として映ってしまうからです。自分が正義だと思っていれば、まだ抗える力はあるかもしれませんが、学校にいると、「いじめられる自分が悪いんだ」という気持ちになるのです。

 「Victim blaming(被害者批難)」という言葉がありますが、とりわけ知り合い同士の関係で被害が発生した時、被害者が批難される傾向があるという意味です。これは一般的には、社会が加害者より被害者を批難する傾向があることを言われがちですが、被害者自身の心理でも、「自分が悪いんだ」と思う傾向があるんじゃないかと思っています。

 僕は、スクールカースト下位に位置づけられる、傷つけられる人は当然のこと、仲間を作ってスクールカースト上位に位置している人も悪くないと思っています。そう言った、個々人の倫理性・特徴を問うて断罪することは間違っていると思います。個々人の倫理性・異質性を徹底的に攻撃することは、「ネットリンチ」、「誹謗中傷」という形で、自殺者まで出して顕在化させています。

問題にすべきは、社会の想定からあぶれた異端者を攻撃することを正当化する原理原則ではないか

 本当に問題にすべきは、同質的でない人を社会のカースト下位に追いやることを正当化する論理を持つ社会構造こそが悪いと思っています。枠にはみ出さない者、もしくは、わかりやすい成功例を示した、カッコいい異端者だけが正義とする原理原則(善悪の基準)が問題にされるべきだと思っています。僕は日本は、社会構造がしっかりしてきたがゆえに、社会構造の想定からあぶれた人を攻撃する傾向があったんじゃないかと思っています。近年反省して変化してきている動きも見られるものの、人の価値観は、急速には変わらないでしょう。だから、問い続け、考えていく必要があると思っています。

 ここまで書いてきた僕の意見は、抽象的だったかもしれませんが、具体的に僕の生きた学校生活について書いた記事も紹介させていただきますので、ぜひご一読いただけたら、幸いです。

 僕は学校生活を通じて、「自分が大切にされている」という感覚を得られないまま生きてきました。小学校入学以降、常に抑圧を感じ、心の中に劣等感、他者への不信を育ながら生きてきました。本当に自分が大切にされているんだって実感できた瞬間は、大学受験に失敗し、家計が苦しい中、予備校浪人を経験させてもらえた時でした。あそこで僕は、立ち直るキッカケを手にすることが出来たと思っています。間違いなく、人生のターニングポイントでした。地元から遠く離れた大学に進学したことで、今まで自分の所属していた大嫌いな社会から解放され、自分の積み重ねた鬱積を軽くすることが出来ました。

誰もが自分を大事にでき、障害があっても、人と違うところがあっても生きていける社会が理想的だと思う

 今、みんな自分を肯定することが出来ないでいると思います。多数を構成できる、もしくは多数から支持されれば正義だけれど、そうでない少数でいるうちは、肯定する要素は何もない。支持を集めるには、自分が多数に入るには、生産性を証明するのが手っ取り早い。自分が少数になっていたり、孤独になっているのは、自分が悪いんだとなってしまう。困窮するのは、自分が生産性を証明できないでいるから。学校生活で積み重ねた習慣のように、絶えず自分を責めてしまう。

 そういう状況で、圧倒的少数で、異端性が強く、人の助力が必要な障害者を見たら、守らないといけないという倫理性以上に、何でみんなと同じ事が出来ない異端者を守らないといけないんだと考えるのではないでしょうか。自分たちのルールでは、生産性を証明するか、仲間を作れる人間こそが偉いとなるのに、どうして、助けが必要だからと言って、助けないといけないんだと。

 僕は障害があっても、地域で当たり前に暮らせる社会こそが文明的で良い社会だと思いますが、今の社会構造はそうではない。みんなが社会を回すために同じことは最低でもできないといけない。しかも、その上で何か特別な事ができて初めて評価されるという厳しいルールで回っているように思います。

 でも、本当はそんな社会のルールの方がおかしいと思いませんか。本当は、他人の評価とか関係なく、一人一人が愛されていいし、自分を大事にできる社会であるべきだと思うのです。

<つづき>


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