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イエメンで日本の船が拿捕された経緯と理由について

 予断を許さないイスラエル・ガザ紛争だが、また新たな展開が始まった。イエメンのフーシ派によって日本郵船の所有する貨物船が拿捕され、人質となったようだ。乗組員に日本人・イスラエル人はいなかったため、大きなニュースになっていないが、地域の不安定化を促進する要因の一つとなるだろう。パレスチナ紛争を巡って別の地域で人質事件が起こることは珍しくなく、レバノンのヒズボラもしばしば人質を殺害していた。

 イエメンの情勢はどうなっているのか。フーシ派とは何なのか。今後の中東に与える影響はどうなるのか。それらについて解説したい。

中東最貧国・イエメン

 中東地域は世界の中でも非常に国家間の経済格差が大きい地域だ。その中で最も貧しいのがイエメンである。イエメンの一人あたりGDPや人間開発指数はアフガニスタンと並んでユーラシア大陸で最下位だ。イエメンの経済水準はユーラシアというよりもアフリカの最貧国に近い。この格差は昔から一貫しており、改善される見込みは薄い。

 イエメンが貧しい理由は何か。それはアラビア半島自体がもともと低開発地域だったというのが大きな理由だ。古くから文明の発達したイラクやエジプトと比べてアラビア半島は不毛の地であり、イスラム教の誕生を除けば世界史に残るようなアクションを起こしていない。19世紀の段階になっても近代国家は形成されず、近代以前の部族社会が続いていた。ユーラシア大陸でここまで遅れていたのは他に遊牧社会が残っていた内陸アジアくらいだ。

 ただし、イエメンはアラビア半島の中では比較的発展していた。この地域はアラビア半島で唯一まとまった降雨があり、農業が可能だ。イエメンは「幸福のアラビア」と呼ばれ、聖書にも登場している。イエメンの人口はアラビア半島でも突出して多く、3000万人を突破し、まだまだ増加している。

 逆転が起きたのは第二次世界大戦後だ。それまで内陸のサウジアラビアは人の近寄れない不毛の地だったが、膨大な石油収入で目がくらむような豊かな暮らしを謳歌し始める。他のアラビア半島の国も同じだ。これらの国は極端に人口が少なく、一人あたりの石油産出量が大きいことも幸いした。イエメンはこれといって油田がなく、人口も多かったため、オイルマネーの恩恵に唯一預かれなかった。結果としてイエメンは中東最貧国として固定されることになった。イエメンは石油が出なかったIFルートの湾岸諸国なのだ。

イエメンの政情不安の歴史

 中東諸国の例に漏れずイエメンは政情が常に不安定だった。イエメンは港町のアデンを要するため、南部は大英帝国の支配下にあった。北部は第一次世界大戦までオスマン帝国の支配下である。イエメンは南北に分断される状態が続き、冷戦終結まで統一されなかった。北部ではイエメン王国が成立したが、クーデターの結果アラブ社会主義政権が誕生し、王党派との間で長引く内戦が発生した。南部はイエメン社会党による一党独裁が続き、中東唯一のマルクス主義国となった。

 冷戦終結と主にイエメンはついに念願の統一を果たす。南イエメンはもはやソ連の援助が滞り、財政的に自立不能だった。当時の北部はサーレハ大統領による独裁体制だったが、北部が大統領を、南部が副大統領を排出するという妥協案で統一政権が誕生した。もちろんこうした協調体制はうまく行かず、1994年に南部による再独立を目指したイエメン内戦が勃発する。北部のサーレハ政権は短期間で南部を制圧し、統一イエメンがサーレハ独裁の下でようやく完成した。ただし南部が弾圧されたわけではなく、旧南イエメンの高官だったハディが副大統領に指名され、南北折衷の体制は続いた。

 南北統一に成功してもイエメンが脆弱国家だという問題は何も解決されなかった。山がちなイエメンは国内に多数の部族と武装勢力を抱え、いつ衝突が起きてもおかしくなかった。南部では南部独立派の反乱が散発的に起こっていた。北部はシーア派の住民が多く、シーア派武装組織のフーシ派が小規模な反乱を起こしていた。2000年にはアルカイダがイエメンで米艦コール爆破事件を起こしている。

 イエメンはビンラディンがルーツを持つ土地であり、アルカイダとの関係が深かった。911の調整役はイエメン人だったし、アラビア半島のアルカイダはイエメンの辺境地帯を根拠地にしていた。2010年のデルタ航空爆破未遂事件はアラビア半島のアルカイダによって引き起こされたものだ。アメリカはイエメンでしばしば無人機による暗殺作戦を実行し、アウラキ師などのテロ指導者を殺害した。

アラブの春、内戦、そして国家の崩壊

 これだけでも十分不安定だったが、ここに止めを指したのが2011年のアラブの春だ。サーレハの独裁政権は北イエメン時代から数えると30年以上にも及び、なんとか国家の崩壊を食い止めていた。しかし、2011年のアラブの春で国内の反政府デモが盛り上がり、サーレハは辞任を余儀なくされる。後任となったのは副大統領のハディである。

 これによって統治は混乱状態となり、イエメン政府は反乱勢力を抑える力を失った。サーレハはハディに政権を奪われたことが面白くないので、勢力拡大を進めていた北部のフーシ派と手を組む。フーシ派は2014年に首都サヌアに進軍し、イエメン軍はこれに抵抗する能力を失っていた。2015年にフーシはついにクーデターを決行し、革命政府を樹立する。ハディ大統領は首都を逃げ出し、イエメン内戦が始まった。

 フーシ派は首都サヌアを含む北部を完全に掌握していた。ハディ政権は風前の灯火だったが、何とか南部のアデンに逃げ込み、暫定政権を作る。ここで外国の介入が始まる。北部のフーシ派はシーア派であり、イランと親密な関係にあった。イランはフーシ派を支援することでアラビア半島に勢力を伸ばそうとした。サウジアラビアは宿敵イランが喉元にやってくるのを許容できず、UAEを誘って軍事介入を始めた。フーシ派は首都を制圧しているものの、国際社会はクーデターを認めていないため、「反政府民兵組織」というお題目のまま報道がされている。

 ハディ政権はほぼ崩壊状態であり、政府の体をなしていなかった。ここでハディ暫定政権は南部独立派と手を組む。サウジアラビアとUAEはあまりにもハディ暫定政権が情けないので、空爆を繰り返すが、さっぱり成果が上がらなかった。軍事介入はむしろサウジ軍の無能さをさらけ出すだけだった。イランの意向を受けてフーシ派はサウジアラビアへのドローン攻撃を繰り返し、油田地帯は度々炎上していた。最近は長距離ミサイルまで配備されているようだ。

 フーシ派に対抗する南部は分裂していた。南部独立派はハディ暫定政権と関係が悪く、散発的に戦闘を繰り広げていた。UAEは途中からハディを見捨てて、南部独立派を支援し始めていた。暫定首都のアデンは南部独立派によって実効支配され、ますます暫定政権は形骸化していった。対する北部も分裂していた。フーシ派に協力していたサーレハは途中でフーシ派と仲違いし、対立関係に陥った。結局フーシ派によってサーレハは暗殺され、勢力は消滅した。内戦のドサクサにまぎれて東部の辺境地帯ではアルカイダが勢力を拡大し、一時地域を実効支配していた。サウジアラビアの介入もあって、現在は東部は暫定政権の支配下にある。

現在のイエメン

 イエメン国家は現時点で崩壊状態にある。ここ数年、脆弱国家ランキングでイエメンは1位だ。ソマリアや南スーダンを上回る混乱状態にあるということだ。イエメンの正統政府は事実上消滅しており、サウジアラビアが無理やり延命させている。イエメンの北部はフーシ派が、南部は南部独立派が掌握しており、戦いは終結の気配を見せていない。サウジアラビアにしても軍隊が弱すぎて情勢を打開する力がない。

 この紛争で一番得したのはイランだ。なにしろアラビア半島に根拠地を築き、サウジアラビアのお膝元を揺るがすことができるのだ。レバノンのヒズボラと協力関係を結んだ時に似ている。フーシ派はイランに忠実で、幾度となくサウジアラビアに嫌がらせを続けてきた。フーシ派はイランが地域情勢を操る手段となっており、今回の拿捕もその一環だ。

 イエメンの紛争が解決する見込みは薄い。北部のフーシ派は強大で、安定した統治を行っている。暫定政権やサウジアラビアがフーシ派を壊滅させるのは極めて難しいだろう。勇猛果敢な山岳ゲリラと、装備ばかりが高価なサウジアラビア軍では勝負は着いている。ただし、南部の制圧は難しいだろう。湾岸諸国が介入するだろうし、宗派の問題もあって南部はフーシ派を受け入れる余地がない。暫定政権よりも有能な南部独立派はフーシ派と十分に戦えるだろう。要するに、現在のイエメンは以前の南北分断状態に戻っているのだ。フーシ派が統一国家を回復するには、何らかの方法で南部独立派と折り合いを付けなければいけない。ただし、それにイランとサウジアラビアが納得するかは別だ。

拿捕された貨物船

 イエメンは厄介な場所に立地している。イエメンの面するバブ・エル・マンデブ海峡は世界の海上交通のボトルネックだ。この海峡は海運にとって危険地帯である。イエメンの対岸にあるソマリアは海賊多発地帯として悪名高く、各国の海軍によって掃討作戦が行われている。

 フーシ派はゲリラ組織というより首都を含む北部を実効支配する革命政権と考えたほうが実態に即している。貨物船に関しても海賊行為ではなく、拿捕という表現が使われるのはそのためだ。フーシ派は曲がりなりにも革命政府を名乗っているため、ハマスのような人質作戦ではなく、抑留という形式になるだろう。

 似たような事例は1968年のプエブロ号事件を彷彿とさせる。北朝鮮によってアメリカ軍の船が拿捕され、船員が抑留されたのだ。これによって北朝鮮はベトナム戦争でてんてこ舞いのアメリカに圧力を掛けることができた。今回の拿捕事件も似たような役割を果たすだろう。ただし、抑留者にイスラエル人もアメリカ人もいなかったため、政治的圧力としては弱いだろう。

 恐らく今回の拿捕が長期化することはないだろう。第三国の人質を取っても逆効果になるからだ。今回の拿捕は西側に対する揺さぶり以外の意味はない。フーシ派はせっかく優勢なのに、みすみす自分たちの悪評を高める必要はないはずだ。イスラエルに対する攻撃はイスラム世界で大変な人気があるが、今回の拿捕は西側に対するメッセージにはなれど、イスラエルに対する抵抗運動としての意義は薄いと思われる。

地域大国の手のひらで踊らされる諸勢力

 中東地域の一連の事件は全てイランの勢力拡大と、アメリカ・サウジアラビアの封じ込め同盟という両者の綱引きで規定されている。イスラエルもハマスもフーシ派も彼らの駒として使われているに過ぎない。

 イランの目的は封じ込め同盟を弱体化させることだろう。イエメン情勢を悪化させればサウジアラビアは身動きが取れなくなり、イランに反抗できなくなる。バブ・エル・マンデブ海峡に不安要素が生まれれば世界の海上交通は滞り、海洋覇権国アメリカへの信頼が薄れる。ガザで紛争が燃え上がればイスラムの民衆はお祭り騒ぎになり、イランとどの同盟勢力の政治的正統性が高まる。エジプトはガザの問題で頭が一廃になり、サウジアラビアはイスラエルとの接近が難しくなってくる。

 イランが使える駒は他にも沢山存在する。イラクとシリアには米軍が駐留しているが、イランは配下の勢力を使っていつでも米軍を攻撃できる。レバノンのヒズボラはイスラエルに攻撃を繰り返しており、場合によっては第三次レバノン戦争が勃発するかもしれない。一番の決定打はホルムズ海峡だ。世界の石油貿易の大部分を占めるこの海峡を攻撃すれば世界の石油経済は大混乱になるだろう。イランは地域を思うがままに揺さぶることができ、アメリカがイランを敵視する理由もこの部分なのである。

 イランは地域の脆弱国家に介入することで勢力を拡大してきたが、2010年代にアラブ世界が途方も無い混乱に陥ったことで、イランはますます強大になった。イランの勢力範囲はもはやレバノンからイエメンに及ぶ巨大な三日月地帯となっており、かつてのペルシャ帝国を彷彿とさせる。あまりにもイランが強大になりすぎたので、アメリカは勢力均衡を回復させる必要がある。アメリカ・イスラエル・サウジアラビアの三国同盟とイランの駆け引きは今後も続くだろう。

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