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文章を読むことと書くことは

文章を書くことが得意だと信じている。
信じていてあげたい。
でも多分、素晴らしく痺れるほどに得意とか、そういうのではないのだと思う。

書くことではなく、読むことについて、まずは話そう。
20年近く文章を読むのが得意だと思っていた私の自信は、一瞬で崩された。

私はそれまで、自分は文章を読むのが速く、得意なのだと思っていた。ざーっと目を通して、読んだ、終わり、はい次の文章、という感じで大好きな小説も読んでいた。

ある時、小説の中に描かれた情報を説明しなければならないことがあった。
自信満々とまではいかないまでも、まあこれでいいだろうと思って書いた私の答えは、確かA〜Cの評価でB、みたいなものだった。
周囲には、Aの評価を貰った人しかいなかった。
自分の目の前にある「B」が信じられず、下に添えられた「読みが不十分」の文字も信じられなかった。
何より心に刺さったのは、友人たちの「適当に読んだ」「さーっと」みたいな言葉だった。彼らはそれでAを獲得したのだ。

そこで私はほとんど初めてといっていい位の絶望を感じた。ああ私、薄々何か気付いてはいたけれど、文章ちゃんと読めないんだな、熟語も漢字もことわざも知らんの多いしな、雰囲気で読み飛ばして調べないから、ああ、私は「さーっと」読めても、それは文字列をただ目で追っていたというだけで、何も理解できていなかったのだな。

悲しくて、でも友人たちの手前悲嘆に暮れる訳にもいかず、ぼうっとしていた。

数メートル先で、「速く読むにはどうしたらいいんですか」と訊いている人がいた。
あ、それ私も知りたいなあ。速読とか、身につけないといけないのかな。どうなんですか。
数メートル先の会話に、心の中で参加していた。

応えは、
「速く読まないといけないんですか?」
だった。

え、速く読まなくていいんですか?だって、速く読んだほうがいいから速読とかがあるんでしょう?
試験だって1日だって、限られた時間があるじゃないですか。速く読めたほうがいいんじゃないですか。

詳しい応答は忘れてしまったけれど、そこで交わされていた会話は、一言で言ってしまえば「自分のペースで読めば良い」で終了していた気がする。
とりあえず私が彼らの会話から得た情報はそれだった。

「速く読めない」自分のことをとても悔しく思った。
けれども、時間をかけてゆっくり読めば、友人たちの「適当に」「さーっと」のレベルに追いつけるのかもしれない、とも思った。

それからは大切な文章はゆっくり読むようになった。何回も繰り返し読めば読みの精度が格段に上がることもわかったし、試行錯誤して、大体の自分と文章との向き合い方がわかってきた。
その喜びは、「速く読めない」悲しさを上回り、「人ってそれぞれできることが違うんだな」という当たり前のような考えに行き着いた。
そして、驚く程安心した。


文章を書くことが好きだ。
ひたすらにだらだらと文章を書くという仕事があるなら、それは向いているだろうな、と思う程度には。
話は飛ぶし、やたら「」と読点を多用するし、同じ話を3回は繰り返すけれど、延々と書いていられる。

しかし文章を書くのが上手いのか?と訊かれると、そう信じたい、そう言ってくれ、としか言えない。
多分上手いわけではない。
人より少し得意(文章を書くことを苦に感じないという点において)かもしれないけど、べらぼうに上手いとか、そういうのではない。
それでも読書感想文の小さな賞とか、直しを入れられずに本稿に入ることを許可された文章とか、そういうのがちょっとだけ、私にいらない自信を持たせてくれてしまっている。
嬉しかったし、いらないとか本気で言ってないし、大切な記憶なのだけれども、明らかに私を図に乗せている。

一瞬で崩された、「文章を読むのが得意」という自信と同じく、「文章を書くのが得意」という自信も、じわじわと崩されていっている。

どうしてか。
noteをはじめたからだ。
私の記事は正直に言って、そこそこしか読まれない。

「そこそこ」でも読んでもらえることがありがたいし、「いいね」を押してくれたり、何らかのアクションをくれた方には本当にありがとう、と思う。

けれども、そこそこしか読まれないのは事実だ。
定期的に私の文章を読みたいと思ってくれる方も、多分少ない。いない気さえする。
フォローしてくださっている方が、どのような意図で私のnoteをフォローしてくれているのかわからない。でも多分、私の文章が好きだから、ではない。

他の方の記事を読んでいてわかるのが、自分の語彙の圧倒的な少なさ、表現力の乏しさ、ぐいぐい人を引き込む文章を書けていないこと。
レイアウトの下手さも痛感するが、それはひとまず置いておく。

私は自分の文章が好きだけれども、圧倒的に文章が上手い人の、ぐいぐい引き込まれる、「それで?それで?」という感覚を、自分の文書には抱けない。

読むことは、「自分のペースでゆっくりと、何度も」という解決策を見出した。

では、書くことは?
どうせ書くなら上手くなりたい。
書くことも、「自分のペースで、何度も」を繰り返せば上手くなるのだろうか。

小説の、好きな文章をノートに書き写すという作業をたまにしている。
それの効果はいまいちわからない。

だから、何度も、noteに記事を書いていこうと思う。
自分のペースで。

多分、これは、他のあらゆることと同じように、人と比べてはいけないことだ。

自分の文章は自分の生身の言葉で書かれる。生身の技法で組み立てられる。

人それぞれできることは違うし、書ける文章も違う。
私の文章を好きだと言ってくれる人に出会えるかもしれない。

そうなるように、自分の文章を大事に、育てていきたい。
ゆっくりと。

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