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『ジェネレーター 学びと活動の生成』で学んだ今後の教師の在り方

今回の本の紹介は、一応教育書です。ただ、教育だけではなく良い場をつくったりしたい人にもぴったりの本です。以下の記事は、去年書いたものでそこからリライトしています。

今と文体等が多少違いますが、またそれがいいと思ってほとんどそのままにしています。この本は、今の私を作っていると言っても過言では無い本です。ぜひみなさんの参考になれば幸いです。

今回紹介する本は、『ジェネレーター 学びと活動の生成』今回はこれだ。これがすごく良かった。これから私がやるべきことはこれなのだと強く感じた。

まずは、ジェネレーターとはなんなのか。定義を以下に引用する。

ジェネレーターの定義

ジェネレーターシップとは、出来事・物事が生成することに参加し、(主客・自他の境界を溶かし、あいまいにしながら)そこで起きていることをよく見・聴き・感じ・拾い上げ、その出来事の内側でその生成を担う一部となるということ、そして、世界のそのような関わり方。

『ジェネレーター 学びと活動の生成』より

ジェネレーター、この言葉は初めて聞いたのではないか。言葉の響き的には、オペレーターのようなイメージを持つかもしれない。だが、全く違う笑

簡単に言うと、指導者の在り方である。指導者は、時代によって2回変化してきたという。まずはじめに、「ティーチャー」や「インストラクター」の存在である。これらの役割は、知識を伝達すること。受け手はただ受動的に話を聞くのみである。これは、知識こそが全てだ!と言われた時代に、必要とされてきた。

次が、「ファシリテーター」である。ファシリテーターは、ある集団の対話・コミュニケーションを促す役割である。自分はその集団の外にいて、対話を促すのが特徴だ。この時代は、知識をいかに伝達するかということに重きを置かれていたため、近年はファシリテーターっぽい人がたくさん現れたように思う。

そして最後が「ジェネレーター」

AIや人工知能が全盛の時代、先行きの不安な未来に必要なことは「協力して生み出すこと」これが、この先の未来に必要なことである。さて、この「ジェネレーター」になるための重要な3点の以下に記載する。皆さんの参考になれば幸いである。

1 ジェネレーターは雑のプロ

したがって「ジェネレーター」いろいろな「雑」を集めて、記録しようとする「雑」のアーカイバーと呼べる存在です。さらに集まった「雑」を「仲間」と共有することを楽しむ「雑」のコラボレーターでもあります。雑を集め、雑談し、雑記し続けることを愚直に積み重ねるのです。こうして培われた知のネットワークが「ジェネレーター」の礎となり、偶発的に出「遇」う事実を見逃さない芽が育ち、こうしたら面白くなるのではと言う反応力を高めるのです。

『ジェネレーター 学びと活動の生成』より

ジェネレーターとは「雑」マニアということだ。これは、最近流行っている「生産性・コスパ・タイパ」思考とは真逆をいく。

例えば、雑談だ。コロナ禍では、リモートワークが中心となり雑談は存在を消していった。それがコロナ禍を乗り越えつつある今でも変わっていないように思える。

リモートワークで生産性を求めた結果、何か大切なものを失ったような気がする。生産性・合理性ばかりを突き詰めてしまえば、人間はゆくゆくはAIに取って代わられるのではないか。

だからこそ私は雑談を大切にしたい。職場はもちろん職場以外でも。職場は正直、みんな忙しそう。私は早く帰るが、みんなが仕事している中で雑談するのはかなり迷惑だろう。

だから今年は、勤務時間内に時間をとり、ある程度テーマを決めて雑談会を行なっていきたい。また、職場だけではなくさまざまなジャンルの人や場所で雑を集めていくことが非常に大切だ。私はよくカフェや革小物の店で何も買わずにずっとしゃべっている笑

そんなことを繰り返すことで、ふと良きアイデアが降ってくることがある。

だからこそ、雑を集めることは大切だし、楽しい。

2コミュニケーションをずらすことと誤配

ジェネレーターの場合は、コミュニケーションをつなぐだけではなく、そこに新たな意味を付加して場に返す。そうすると、もとの発言の意図からはズレてしまう。ズレてしまう、というとネガティブに聞こえるが、そのズレこそが創造的であるということだ。コミュニケーションにおける多義性を限界・制約として捉えるのではなく、それをむしろ、新しいものが生まれる創造の余地として活かすのである。

『ジェネレーター 学びと活動の生成』より

コミュニケーションをずらす。あまり聞いたことがないかもしれないが、これも非常に大切だ。一般的なイメージだと、コミュニケーションがズレるとあまり良くないと思うかもしれない。

空気が読めないやつ認定されたり、ちょっと何いっているのかわからないです(サンドウィッチマン)などなど。

だが、私はコミュニケーションのズレは非常に創造的だと思っている。なぜなら、コミュニケーションのズレから起こる「雑」(ノイズ)が新たなものを生み出す余白を生んでいるからだ。

ここでも「雑」という言葉が出てくる。「雑」は生産性から逃げだすために有効なキーマンなのである。生産性からは新たなものを創造することはできないと思っている。

なぜなら、生産性は自分が管理できる範囲でしか物事を考えないために、新たなものを創造する余地はないからである。

例えば、コロナ禍の運動会の出し物を決める時のことだ。ある子が「パン食い競争をやりたい」と言って周りは「何言ってんの❓」という感じだった。

確かに、コロナ禍でパン食い競争は不可能である。しかし、私は「いいねえ、確かにやってみたい!」と言った。他の子は戸惑っていたが、そのまま続けた。

次に、「じゃあどうやっていこうか」とどんどん意見を出し合いながら話し合いを続けた。

そして、結果的には「パン食い障害物競争」という内容で実際に運動会の種目として行うことができた。これは結構革命的なことで、他の先生方も称賛の声をいただいた気がする。

そして、なにより子どもたちが非常にいい顔で運動会に参加することができたのではないかと思う。

この種目ができたのも、もともとは「コミュニケーションのズレ」だったように思う。これを東浩紀さんの言葉で言うと「誤配」になる。だからこそ、これからも子どもたちが謎の発言をしてもそれをおもしろがり、ヒントにできるようなスタンスであり続けたいと思った。

3中動態とジェネレーターと主客合一

ジェネレーターが巻き起こす生成ということも、このような中動態で表されるような事態なのだ、と僕は考えている。つまり、自分も場の一部となり、自分たちのなかで何かが生じてくる、成長し、何かが見えてくる、そういう出来事が生成=ジェネレートということなのだ。

『ジェネレーター 学びと活動の生成』より

「ジェネレーターになる」という言葉は正確ではないらしい。「気がついたらジェネレートしていた」という表現のほうが合っているかもしれない。

中動態という言葉がある。どんな意味かは忘れたので引用する笑

なぜ中動態に注目するのか。実は中動態のことを知ると、当たり前のものと思えていた能動と受動の対立が実は非常に不便なものであることがわかってくるのです。僕がよくあげる例は、「惚れる」です。

 みなさん、惚れるっていうのは能動ですか、受動ですか。(会場から 能動……。) 能動ですかね、でも自分で「惚れるぞ~」って言って惚れられないですよね。http://igs-kankan.com/article/2019/10/001185/

なんとなくわかるだろうか。惚れるということは自分の意思ではどうすることもできない。惚れるという行為を行うのではなく、他者に惚れるという感情が内側から湧いてきてとどまっているのではないか。

だから、能動態は外部で完結するもの、中動態は内部で巻き起こるものと新たな対立軸が見えてくる。そこで、ジェネレートだ。ジェネレートは外部で完結するものだろうか。

定義を考えると、外部ではないように思える。自分の内側から感情が湧いてきて自然とジェネレートしていたという方が正しいのではないかと思う。

ジェネレーター的要素が自分の中にとどまっていたなあと、生み出した後に気づく感じ。その体験はあるような気がする。自分ができることを一生懸命やった上でできたものを見ると「ジェネレートできたなあ」と思うことがまだ少ないがある。

今度も、「ジェネ神」(自分で命名)が降りてくるように子どもと共に一生懸命に生み出す活動を続けていきたい。とりあえず、自分が楽しみ盛り上がっていく。自作自演。

最後に、以下の言葉で文を締める。

ひらめきや偶然をキャッチできるのは、偶然を待つのではなくて、何かを生み出そうとするプロセスの場に没入し続けているからだ。

『ジェネレーター 学びと活動の生成』より

最後まで、お読みいただきありがとうございました。


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