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知人について書くことについて

何人かの友人や知人、あるいは更に近しい人から「え、小説書くんだ! 私のこと書いてよ!」と言われたことがあります。周辺の空気から素材を掬い集めるタイプの書き方をする私からしたら渡りに舟なわけですが、誰かを題材にするということは、少なからずその人の人生というか在り様みたいなものを手元で操らせてもらうということなのです。私のちっぽけな両手の中に、あなたの命を乗せてもいいの? と私は思ってしまう。

もちろんとても嬉しいんですよ、書いてほしいと言われることは。だって、ある程度私の詩的世界に対して関心を抱き、信頼を寄せてくれている証拠だから。私の文章を読んでみたいと思ってくれていて、それが自分についてのことだったら嬉しいと思ってくれている証拠だから。

でも、大丈夫? とも思ってしまうわけです。あなたの趣味だとか、大切にしているものだとか、そういう特徴的な部分を拾って、あなたによく似たお人形を私はこさえるのですよ、と。そのお人形は、私の思惑に従って動く。泣いたり、笑ったり。もしかしたらあなたは思うかもしれない。「私はこんなことしないのに」、と。でも、そんなことは関係ないのです。だって、それはあなたの命を私が吸い取って、あなたによく似たお人形に注ぎ込んで作ったお話だから。あなたであってあなたでないそのお人形は、あなたから見たら、そして共通の知人から見たら、あなたにしか見えない。私だけは、そこに数滴加わった私の詩的世界を知っているけれど。

知人について書くことは、とても光栄で、とても幸せで、とても罪深いことです。昔、文学について学ぶ中で、「周囲の人物を題材にしたことの罪」という概念に出会ったことがありましたが、当時はよく分かりませんでした。周囲の人物を題材にすることはとても当然のことのように思えたから。でも、今なら分かります。その「当然」がどれほど罪深いか。魂で遊ぶことは、とても罪深い。でも、やめられないんですよね。楽しくて仕方がないから。それが差し出された魂であれば、尚のことです。

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