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文学研究者という肩書き

大層なタイトルをつけてしまった。嘘ではないけれど、本当です! と胸を張って言える自信も、まだない。「文学研究者の卵です」と名乗ることもあるけれど、そろそろ卵から孵らないとそのまま目玉焼きにされてしまいそうな気もする。

私は宇多田ヒカルとポルノグラフィティとV6に育てられた人間で、中学生の頃は宇多田嬢や新藤晴一氏の歌詞を自分なりに読解することを趣味としていた。V6は、まあ、学校へ行こうを見てゲラゲラ笑ったり、(親が厳しくてライブには行かせてもらえそうになかったので)ライブレポを見ながらゲラゲラ笑ったりする、大好きなお兄さんたちだった。

もう一つ、自分を語る上で欠かせないのが読書趣味だった。今でも(本記事タイトル参照という感じだが)読書はそれなりにたっぷりするのだけど、子供の頃はそれはもう、取りつかれたように本を読み漁っていた。自分の本棚では足りなくなって親の本棚に手を伸ばしたことで出会えた作家もいっぱいいる。小説を書きたくなったきっかけの村上春樹にも父の本棚で出会った。私は本を通じて、色んな人と握手をしてきた。

読書好きと、言葉の分析好き。それを組み合わせて、あとは英語の力を借りて(これについてはまたいつか書きます。一言で言うと、帰国子女です)、私は米文学研究の道に進んだ。研究者というか、アカデミアの世界で一応お仕事ももらえて、ご飯を食べることは出来ている。今年の三月には、恥ずかしくなるようなレベルの博論によってではあるが、なんとか博士号も得た。だから、文学研究者と名乗ってもいい、はず。

なぜ私がさっきから「はず」だとか、「嘘ではない」だとか、目を泳がせておろおろしているような表現ばかりしているかというと、簡単に言えば、自信がないからだろう。本当に自信がない。博士を名乗るほどの知識もないし、経験もない。掲載論文は数本あるけれど、業界の大手学会にはまだ採用してもらえたこともない。お仕事は出来ているけど、昨今のポスドクの闇ですね、いわゆる任期付きというやつで、どこまで未来が見えているかと言えばすぐ爪先のあたりまでで、それ以降はじりじりと崖に向かっている気分になりながら暮らしている。

いつか私は文学研究者という肩書きを、自信たっぷりにとまではいかなくとも、もっと嬉しそうに背負うことが出来るのだろうか。それまでには、何をしたらいいのだろうか。毎日それを考えながら、でもそれを目的化してはいけないとも思いながら、生きている。楽しく研究がしたいなあ。苦しいのは構わない。研究者というのは多かれ少なかれ変態の集団で、研究の苦しみは甘美なものに感じられるから。苦しいのは構わないとして、研究を安心して出来る環境がもっと整えばいいなあ。ご飯を毎日食べていくことに安心したい。本をもっと買うことに安心したい。研究に関係ある文章も、ない文章も、もっと書くことに安心したい。文学研究者という肩書きの重みに押しつぶされないようにすることは大変だ。卵の殻の中にもう一度戻りたくなる。でもそういうわけにもいかなさそうなので(本当にいよいよ恩師に怒られそうだし)、ひとまず重たすぎるこの肩書きを、申し訳なさそうな顔をしながら引きずって前に進む。そこに崖がないことを願いながら。

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