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なぜ常識は存在しないのか

こんにちは。おーちゃん柔です。

「常識」や「当たり前」を『存在するもの』として捉えてしまうと、私がとても生きづらくなってしまうので、私の中では常識は存在しないというか存在できないんです。

たとえば、『障がい者を蔑むなんて常識だろ?』と誰かが言ったとします。もちろん、その言葉にも私の中に『常識というもの自体存在しない』という反発心は起こります。ですが、その一方で、その誰かの発言に吞まれそうになっている自分がいるのも確かなんです。

これが私の「最大の働けない理由」です。

障がい者云々だけでは片づけられないんです。日本人はクローズドクエスチョン(閉鎖的な質問)は得意だけど、その反対の「なぜ」とか「どんなふううに」と問いかけられると黙ってしまうという人が一定数いるというのは否めません。もちろん、個人個人の中に、「常識」みたいな当たり前に思っていることはあるはずです。ですが、それを口にすることで、立場が危うくなるのを恐れているんだと思うのです。

それではこの国の社会の在り方を考えていってみましょう。根底にあるのは『出る杭は打たれる』という考え方があるということ。私は、これは大問題だと捉えている訳です。なぜ出る杭は打たれないといけないんでしょうか。こんなことをしていては、自分の意見も言えないし、精神衛生も良くない状態に行ってしまわないでしょうか。

たしかに多様性を認めようとする動きが出始めていることは私も知っています。この言葉だけではとても抽象的ですし、何を持って多様性と捉えるのかという所も重要です。ということで、それでは『何をもって多様性と捉えるのか』という議題で議論してみましょう。とか言ってみます。

自分の中にこれだけは譲れないというもの、誰でも持っていると思います。それが良くない方向に矢印が向くことで、それに意固地になってしまうということがあるかもしれません。愚痴を言い合うんじゃなくて、議論を何時間もできるような関係性を、この国の国民もできるようになることが望ましいのではないかな。と私は思う訳です。

自分の中に譲れないものを持つこと。それは良いことでも悪いことでもありません。ただ、自分の意思を示しつつも、他人の意見も否定しない、議論の余地を残すこと。相手が公認会計士とか弁護士とかでもです。

だれが何を言うかは、私にとってとても影響力の強弱が出てきてしまうように感じるんです。私の中にカースト制を作ってしまっているという所も、私が社会に出られない一つの要因を作り出しているのです。

いかがでしたか?

いかがでしたかと言われても、まとまってない文章に対していかがでしたかって言われても…となるのは重々承知の上なんですがw

また次の記事に続くことに致しましょう。



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