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なんてことない人間として生きる

私は虚無主義だ。

社会人になりたての頃
「首相が突然辞任しても何とか国は回っているのだから、私1人が会社を辞めたところで何の問題もないし、それは私に限らず誰でもそうだ。心も体もボロボロになってその後の人生を壊されるくらいなら、さっさと逃げよう。」
と人知れず心に誓った。

あなたがいなくても世の中には何の影響もないし、何のダメージもない、なんて聞かされたら
普通は悲観的にとるものなのかもしれないが
私はそうはならない。
むしろ気楽である。好きなように生きていい、と言われているように感じる。

ありがたいことに子どもの頃は周りの大人たちからたっぷりと可愛がられて育った。
母親も、私のことをたくさん褒めてくれた。
自己肯定感を高めるには十分な幼少環境だったはずだ。
現に、子どもの頃は自分は愛されるに値する存在だという感覚が自然にあったような気がする。
子どもの頃は。
おこがましい言い方をすると、「自分は特別な存在」とでも感じていたのかもしれない。

思春期になると、派手な子がもてはやされるようになる。
当然地味で変わり者の私は見事に、クラスにいるのかいないのかさえわからないような存在に成長した。
まっとうに人間扱いされない日々を送る中、
ふと母親や祖父母の顔を思い出した。
なんだか申し訳なくなった。そして焦った。
せっかく可愛がっている人間が、外ではそんな有り様である。
“私は愛されるに値する人間のはずなのに、どちらかというと歓迎されない存在である”
という事実が私を苦しめた。

おかしな話だ。
普通なら、十分に愛されて育っていればどんな状況でも自分を愛せるはずなのに。
ひねくれた感性を持っているからなのか
“本当は誰からも必要とされてない人間だった”
というのが事実なんだと感じて落胆し、
そこから幼少期に培ったはずの自己肯定感はみるみるうちに崩壊した。

周りの大人たちがくれた愛情を、自分の中で
「『特別な人間』『愛されるに値する出来のいい人間』にならないといけない」
というプレッシャーに変換して生きていたのだろう。自分で呪いをかけていた。


よく「一人一人が特別な存在」とかいう文言を見かけるが、それを重圧に感じてしまう数少ない人間もいるものだ。
人知れず、光も当たらずひっそりと生きている人もいる。それを自ら望む人も中にはいる。

そういう呪いにかかっているのだと自覚した時、最初に書いたように
「私はなんてことない存在。究極いてもいなくてもどちらでもいい存在。」と思うようにした。
ふしぎと肩から余計な力が抜ける感じがした。
その時その時出会う人と、何となく目の前の生活を楽しむ人生でいいじゃないか。
偉業なんて成し遂げなくていい。
立派じゃなくていい。特別じゃなくていい。
何なら、生きてるだけで十分。
そして神様が決めた寿命が来たら、静かにそっとこの世界から消えればいい。

それが私にとっては人生を歩む上での最適解。

SNSが大普及している今の時代、
少しでも多くのいいねを欲しがったり
バズらせようとしたり
とにかく一人一人が特別視されることを欲しているように感じる。
インフルエンサーになりたい人もたくさんいる。

ただ、この世界に生きている人間は80億人もいる。
みんながみんな注目を浴びようとして目立つ存在になったとしても、それなら結局また一人一人が埋もれてしまう。

「特別じゃない、なんてことない自分」を生きる心を持つことは、こんな時代だからこそ大事なんじゃないかなぁと思う。
特別であること、目立つことに照準を当てるのではなくて
他人からの評価に関係なく自分がやりたいと思うことが1つでもあれば、ブレない幸せを見つけられるように思う。

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