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奪う側

オッペンハイマーの映画が好評だということだ。
ずっと原爆投下を悔やまない姿勢のアメリカの
態度の軟化が見てとれる、などという記事を
いくつか読んだ。
ヒロシマ・ナガサキでも上映されたのだという。
日本の映画監督がこの作品に対して
アンサーになる映画を日本でぜひ作りたいと話していた。

どれもこれも、悪いことではないのだろう。
きっと…
何かの前進だと好意的に受け止めるべきなのだろう。

でも、わたしには出来ない。
それを容認することはむずかしい。

黒こげになったひと。
皮膚が剥けて、血に染まったひと。
体の様々の部分がなくなっても
生きていたひと。

それが、原爆だ。
原爆を科学によって作り出した
科学者の苦悩が
一体何だというのだろう。

苦悩すればいい。
苦しむべきだ。

赦すことが、すべてではない。
わたしはそう思う。
人間には、赦せないことがあっていい。

わたしは今回は
オッペンハイ厶の側に立たなくてはならないのだ。
あるいは、それを赦し
アメリカに尻尾を振り
自らの怠惰に溺れた人間に。

苦しい。
それもまた、苦しむべきだ。

行為として、わたしたちは
追体験をすることでしか
戦争を知り得ない。

大いに傲慢に、大いに心を失い
大いに人間として堕ちるのだ。

そのときはじめてわかる
哀しさがある。
きっと。

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