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使用価値の価値観〈1.はじめに〉

・はじめに
私は、幸せの社会をつくりたい。
そこで、まずは「使用価値」という価値観を私なりに考察し、提案します。私は使用価値という価値観に基づいた社会を構想することで、幸せな社会に近づくことができると考えています。
社会を構想する上で、礎となる価値観は非常に重要です。人にとって本当に価値のあるものは何なのか、人々が享受する社会や経済にとって本当に価値のあるものは何なのか。人々は、人にとってより価値のあるものごとを目指すべきであり、社会や経済は人にとってより価値のあるものごとのために構成されるべきです。

しかし、経済や社会から、幸福や価値への根源的な問いかけが消え、ただ価値の伴わない宙ぶらりんな方法論だけが議論されていると感じます。例えば、経済学は幸福や価値といった哲学的な問いを避け、社会は幸せを個人の問題であると丸投げします。幸福の問題は、個人の領域や個人の心理学に終始してしまっています。私は、幸福こそが社会全体の目的になるべきだと考えます。
社会や経済は、まずは価値への問いかけに立ち戻り、社会哲学から始めるべきです。良い社会とはどのような社会なのか。人が幸福に暮らす社会とはどんな社会なのか。幸福な社会において人は、どんな暮らしを送っているだろうか。豊かさとは何か。幸福とは何か。価値とは何か。
こうした価値への問いかけにまずは私が答えるために、私は使用価値の価値観を確立させ、それに基づく社会を構想していきたいと思っています。

・マルクスの定義
まず、使用価値はマルクスの「資本論」で提示された概念です。
マルクスは商品について、使用価値と交換価値という2つの要素を挙げて分析しました。
使用価値とは、商品の外的対象であり、人間のなんらかの種類の欲求を充足させる一つのものです。また、交換価値とは、商品同士の量的な関係であり、ある種類の使用価値が他の種類の使用価値と交換される比率として現れる、とそれぞれ定義されています。(参考:「資本論(1)」P67,70)
例えば、ペットボトルのお茶であれば、喉の渇きを潤したりお茶の味を楽しんだりという使用価値を持ち、他方では150円という交換価値がつけられます。

・使用価値こそ豊かさを示す
そのモノの有用性を証明し、使用者の豊かさに寄与するのは、交換価値ではなく使用価値です。
使用価値は、そのモノによって使用者が得られた豊かさのことであり、交換価値は、ただモノとモノを交換する際のレートにすぎません。
例えば、ある洋服が持つ豊かさというのは、5000円という値札ではなく、その人に似合っているか、身体に馴染んでいるか、どれほどの愛着を持って着ているか等という、使用の場面や使用者の個別固有性に深く関わるものです。このように、モノの価値というのは、その使用者によって個別に実感されるものであり、使用者ごとの意味づけや感性、どのように使用されるかによって決まります。
私たちの暮らしの豊かさのための価値というのは、市場での交換価値(価格や希少性等)ではなく、使用者によってどのような意味が付与され、いかに使用するのかという使用価値であると、私は考えます。

・使用価値は使用者固有のものである
マルクスは商品の使用価値を商品自体が持つものとして扱っていますが、私は各使用者によって個別的に引き出され、さらに創造されるものであると考えています。例えば、ギターは、弾ける人にとっては使用価値の高いものであり、弾けない人にとっては使用価値のないただのガラクタになってしまいます。さらに、素晴らしい演奏や作曲をすればするほど、そのギターによって新たな芸術や体験が生み出され、使用価値は増していくという側面もあるでしょう。このように、使用価値というのは使用者によって引き出され、創造されていきます。

・耐久性(使用の条件)
アレントによる“世界”の概念は、“使用”の本質的な条件を説明してくれます。アレントは、労働と仕事を区別する際に、“世界”という概念を用いて説明しました。まず、“世界”とは人間の個体の生命を超えて存続するように作った人間の工作物全体のことです。この“世界”に所属するモノを生産することを“仕事”とし、そのモノは“世界”において“使用”されます。対して、“世界”には所属せず、個体の生物学的過程に必要とされるモノを生産することを“労働”とし、そのモノは肉体的生命の維持のために“消費”されます。(「人間の条件」P19,20,155,535)
この“使用”と“消費”の決定的な違いは、耐久性を持って“世界”に留まることができるか否かです。私は、耐久性が“使用”の本質的な条件であると考えています。
そして、耐久性を持つことは使用価値にも直結します。使用価値は使用の場面で発生するため、たくさん使用できればできるほど使用価値が累積されるという側面があります。また、耐久性を持った財は、消費されない永続的な価値を持ちます。例えば、法隆寺は1300年以上も健在している世界最古の木造建築です。荘厳なお寺としての価値や歴史/文化的な価値、驚異的な建築としての価値など、様々な使用価値を1300年以上に渡って私たちにもたらし続けています。消費され、交換される際に生じる交換価値とは本質的に異なります。(参考:「ビジネスの未来」)

・有意味性の蓄積
さらに、耐久性を持つ財の長期に及ぶ使用のなかで有意味性が蓄積されていきます。例えば、家というのは、住む人がいて初めて家として成り立ちます。(住む人がいなければ、ただの物理的な建造物です。)そして、その家で暮らすなかで、たくさんの時間を過ごしたり、居心地の良いように部屋をつくったり、掃除や修理などのケアを施したりすることによって、“その人の家”になっていきます。たとえ古びてしまった家だとしても、そこに住んでいる人にとっては、たくさんの思い出や工夫などが詰まっており、かけがえのない家となるのです。他の誰にとっても全く価値が認められなくとも、その人にとっては何物にもかえがたい価値があるでしょう。このように、モノとの関わりによって愛着が増したり、有意味性が蓄積されたりすることは、その人にとっての価値を高めることにつながります。

・使用価値と交換価値
使用価値の価値観というのは、“世界”に影響を残すこと、内在的に豊かさを実感することに基づいています。自分のために消費するのではなく、“世界”において使用する。また、客観的なものを外在的に測るのではなく、個別固有で主観的な豊かさを内在的に実感する。こうした価値観が、使用価値の価値観です。
対して、交換価値を追求する社会では、どんな活動も消費され、“世界”には何も残りません。どんなに良いモノを作っても、それは交換され、消費され、無くなってしまうのです。
さらに、交換価値を追求すればするほど、際限のない消費、ひいては無限の経済成長を目指し、地球環境や社会的な制度や文化という“世界”が消耗されていきます。加えて、経済成長がうまくいかなくなると「日本経済は終わった」「失われた30年」と悲観するしかありません。
また、交換価値の価値観は、外在的な豊かさに基づき、人々は豊かさを自分ごととして実感することができません。さらに、交換価値の経済指標によれば、いくら稼いでも上には上がいて、満たされることがありません。
交換価値の価値観を持ち続けている限り、自分が享受しうる豊かさに目を向けて、得ている豊かさを深く実感することができず、また自分の暮らしや身体に目を向けて、より自分なりの豊かさを構成し、創造していくことができないのです。
だからこそ、私は使用価値という内在的な豊かさへの転換と、使用価値という“世界”のなかで消費されないものごとを目指す価値観によって、より人自身にとっての豊かさに資する社会を目指します。

・・・

〈2.幸せと使用価値〉へ続く

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