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読書感想文:深夜特急4

深夜特急の読書感想文も4まで来ました。

1の時に、全巻揃えたと書いたのですが、
5までしか買っていないことに最近気がつき、
機会があったら買おうと思うのですが、
とりあえず5までの感想文になりそうです笑

それでは、深夜特急4 シルクロードの感想文を記したいと思います。

今回は、特に心に残った2ヶ所について残しておきたいと思う。

4では、沢木さんはインドを出発し、パキスタン、アフガニスタンへと向かう。

まず、最初に心に残った部分は、
インドを出発するバスの中で、
自分に懐いてきた赤ちゃんを抱っこしたら、
赤ちゃんの体に出来ていた水疱が潰れて、
沢木さんのシャツが濡れてしまった時の沢木さんの考え方だ。

沢木さんは、一瞬伝染するかもしれないと考えたが、今さら急いだところでどうなるものでもないと、考える。

インドを歩いているうちに、ある種の諦観のようなものができていた。たとえば、その天然痘にしたところで、いくらインド全土で何十万、何百万の人が罹っているといっても、残りの五億人は罹っていないのだ。そうであるなら、インドをただ歩いているにすぎない私が感染したとすれば、それはその病気によほど「縁」があったと思うより仕方ない。
中略
髪の長かった食堂の少年が、翌日会うと1本の弁髪を残して丸坊主になっている。
昨日、妹が死んだからだという。
インドでは近親者が死ぬと男はこのように頭を丸めるものらしい。そう知ってあたりを見廻すと、どんなにその頭の多かったことか。
少年のいれてくれたチャイを飲みながら、妹さんが死んだ原因を訪ねると、やはり天然痘だという。
日本の厚生省の役人が聞いたら卒倒してしまうかもしれない。妹が天然痘で死んでいるというのに、兄は隔離もされず、しかも客に飲食物を出している。
ブッタガヤでは、身の周りにそんなことがいくつも転がっていた。そのうちに、私にも単なる諦めとは違う妙な度胸がついてきた。
天然痘ばかりでなく、コレラやペストといった流行り病がいくら猖獗を窮め、たとえ何十万人が死んだとしても、それ以上の数の人間が生まれてくる。そうやって、何千年もの間インドの人々は暮らしてきたのだ。この土地に足を踏み入れた以上、私にしたところで、その何十万人のうちのひとりにならないとも限らない。だがしかし、その時はその病気に「縁」があったと思うべきなのだ。

p15~16

死と生がすぐ身近にある国、インド。

私たちは、見たり聴いたり、話したり、触ったりして、心地よいものを感じることが出来る一方で、
体や心にとって不利なものに対しては、苦痛を感じるように出来ている。

それは、私たちの体を守るための必要な仕組みであり、この世に生を受けたものの宿命でもある。

快を感じる権利を得たと同時に、苦痛を感じる仕組みも背負って生きてゆかなければならない。

「死ぬ」ということは、そこに至るまでは、
苦痛を伴うものだろう。

肉体が機能を失うのだから。

でも、そういう部分的な個体としての「死」の捉え方ではなく、もっと大きな人類の運命としての視点から視た「死」は、誰にも平等に訪れるもので、その時期や原因はある種、確率的なもの、「縁」によるものなのかもしれない。

仏陀が生まれた国インドを旅すると、そういう達観した視点が生まれるのかもしれない、と思った。

あまりにも、死と生が近い国、インド。

もう1ヶ所私が印象残ったのは、
イランのテヘランへのバスの途中でイランのメシェッドという都市に途中停車した時のことだ。

落ちたクラッカーの欠片を拾って食べる程、お金のないロッテルダム出身の青年が、2人の男の子にまとわりつかれ、金をせびられている時、

眺めていると、彼は急にポケットに手を突っ込み、硬貨を掴み出した。恐らくはそれが彼の全財産だったのだろう、掌を広げるとそこには六つのリアル貨があった。一リアルは四・五円、つまり五円玉が六個あったということになる。
彼はそれを子供たちの眼の前に差し出し、二つずつ三つの組に分けた。何をするつもりなのだろう。私はその展開を意外な思いで見つめた。

彼は何のためらいもなく、掌の上で仕切った硬貨を、一組はひとりの男の子に、一組はもうひとりの男の子に、そして残りの一組は自分に、と身振りで説明した。子供たちはわかったというように大きく頷くと、嬉しそうにリアル貨を二つずつ積み上げた。それを見て、彼もまた嬉しそうに二リアルを一方の手に取った‥。
その光景を見て、私は強い衝撃を受けた。
私自身、これまで、東南アジア、インドからイランに到るまでの旅の最中に、いったい何百、何千の物乞いに声を掛けられ、手を差し伸べられたことだろう。だが、私はそのたったひとりにすら金を恵んでやることがなかった。いや、恵むまいと心に決めていたのだ。
ひとりの物乞いに僅かの小銭を与えたからといって何になるだろう。物乞いは無数にいるのだ。その国の状況が根本から変革されないかぎり、個々の悲惨さは、解決不能なのだ。しかも、人間が人間に何かを恵むなどという傲慢な行為は、とうてい許されるはずのないものだ‥。
中略
しかし、ロッテルダムの男の行為を眼のあたりにした後では、それは単に「あげない」ための理由づけにすぎないような気がしてきた。自分が吝嗇であることを認めたくないための、屁理屈だったのではないだろうか。「あげない」ことに余計な理由をつける必要はない。自身のケチから「あげない」ということを認めるべきなのだ。
中略
なぜ「恵むまい」などと決めなくてはいけないのだろう。やりたい時にやり、恵みたくない時には恵まなければいい。もし恵んであげたいと思うのなら、かりにそれが十円であっても恵むがいい。そしてその結果、自分にあらゆるものがなくなれば、今度は自分が物乞いをすればいいのだ。誰も恵んでくれず、飢えて死にそうになるのなら、そのまま死んでいけばいい。自由とは、恐らくそういうことなのだ‥。

p117~118

この巻は、沢木さんが、旅出会った人たちに対し、罪悪感を感じたり、良心の呵責を経験することの多い巻だった。

たまたま同じホテルに泊まった病気の欧米人に対し、毎日ブドウを恵んであげていたら、最初は無愛想だった欧米人が、最後は沢木さんと一緒に行こうかなと言い出す。

しかし、沢木さんは聞こえなかった振りをして、テヘランへと旅立つ。

そのバスの中で、自分はひどいことをしたのではないか、彼を見捨てたのではないかと、良心の呵責が起きる沢木さん。

また、街のバザールで、ペルシャ時計を値切った時も、値切りすぎたのではないかと、翌日店主に、菓子を持ってきたり。

この巻は、ある意味、「良心」というものについて、考えさせられる巻だった。

最後に、沢木さんが旅の中で読んだ本の一説について、ここに残しておきたい。

若いうちは若者らしく、年をとったら年寄りらしくせよ。

p196

老いたら一つの場所に落ち着くように心掛けよ。老いて旅するは賢明でない。特に資力ない者にはそうである。老齢は敵であり、貧困もまた敵である。そこで二人の敵と旅するは賢くなかろう。

p197

「ペルシャ逸話集」の「カーブース・ナーメ」という本に書いてある文章だそうです。

画像はお借りしました。






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