9月の終わり


今日は有楽町で待ち合わせた。
有楽町は色々、思い出があった。大学の時にアルバイトの店長が厳しくて、店も忙しくてよく泣いてた。「二見」っていう変わった名前だった。
銀座は誘惑が多くて、いつも変わるショーウィンドー見て、
買えないけどそこにいるのが好きだった。

今日の彼はいつもの半そでを来てた。
街中で会うのは少し久しぶり。ハロウィンが近いねって話をしたり。
今年は、楽しむ相手が一人増えて嬉しいな。
プチコスプレでもして、お菓子交換でもしようかな。

彼と出会ってから、最初のアイコンも今のアイコンも好きだけど前のアイコンの笑顔もすごく好きだった。
笑っている顔がとても素敵。自分の顔嫌いじゃないって言ってて、
そういうのをさらっと言えることとか、
自己卑下や過度な謙遜をしないところが、真似したいと思うところ。

私は、基本的にはネガティブ思考だから、楽観的な人のそばにいたいと思っていて、そうしている。

カフェに入ってコーヒー飲んだ。
彼は抹茶のバスクチーズケーキを頼んでた。
プロントはまだ喫煙席があった。
猫とか、室内清掃の話とか、今までのアルバイトの話とか。

店内で、タロットをやっている二人組がいた。
面白そう、タロットや占星術はファッションとしてすごく興味があって、
でも統計学だからあながち、間違ってはいなかったりもするんだけど
一定の距離を置きつつ、ちょっと楽しみたい。

映画館に行って映画を見た。
アリストテレスの名前が付いた映画だった。
「希望は、目覚めている人間が見る夢だ」と名言を残したとされているが、作品中では目覚めている人間=神様がいい夢を見続けたい、という理由で時が止まった空間が作られてしまったという設定だった。

意図せず、自分がコントロールできない世界に身を置かざるを得ない状況になることは、現実世界でもありうることである。
アウシュビッツの強制収容所だったり、コロナ化でのロックダウンだったり。

終わりが見えない中で、それでも希望や生きがいを失わずに生きられた人は、そうでなかった人と何が違うんだろうか?
絶望の中に、希望を見出すことが私にはできるだろうか。
人間は何らか、自分の人生には価値や意味を持たせたいものであるから、
それが一方的に、強制的に、ないものにされてしまった場合に
どう生きればいいのだろうか。

ナチスによって強制収容所に送られ家族の多くを失うという壮絶な体験をした精神科医のフランクルはこう述べている。
ヴィクトール・フランクル『それでも人生にイエスと言う』の中で、ものごとの考えかたを百八十度度転回することを提案している。
「私は人生にまだなにを期待できるか」と問うのではなく、「人生は私になにを期待しているか」と問う、人生のどのような仕事が私を待っているかと問うだけだと。

 つまり、私たちは人生に問われている存在であり、生きていることに責任をもって答えていかなければいけない。
それに気づくと、現在がすべてであり、常に人生から与えられた現在の新しい問いに答えることだけに専念すればよいということになる。

かといって、過酷な状況の中で実行できるかと言われたら、わからないけれども、。

彼とも話していたのだけど、主人公たちは娘を現実に戻して、自分たちは変化のない世界にいることを選択した。
私なら、現実の変化し続ける不安定な時代に行きたいかなと思う。
自分でいろんなことを選択したい。でも、実は自分で選んでいると思っている世界も、選択させられているのかもしれない。
価値観やイデオロギーに洗脳されて、自分の選択は本当に自分で選んでいるんだろうか?

住んでいる場所や仕事も、、全部すべては決まっていて、それに沿って動いているだけなのかも、
何をもって自分で選んだといえるのか。

アリストテレス曰く、人はなんであれ幸福になるための最善に向かって行動している、と。
一つ一つの行動にも、主体的に生きなければならない。
私は、幸福になりたいし、気持ちよく生きていきたいから。

知れることは知って、自分で考えられる範囲で考え続けたい。
知らなくてよかったと思うようなことがあったとしても、多少怖いけど知りたい。

こんな話ができるのも、彼が話を聞いて、壁打ちになってくれるからこそ。
そういった存在は、たくさんいるわけではないので、貴重である。

そのあと二人でゆっくりした。
どうでもいいことも、メールしてもいいということを聞いて、帰りにたわいもないことをメールしてみた。
履いたことがないタイプの下着を履こうと。
生活に少し楽しみ。いつも楽しい。

そしておしゃれなプレゼントをくれた。
いつもありがとう。
今度、私のバイブルである、『ティファニーで朝食を』ゴッコをしてもらえないかどうか、提案してみようと思う。

帰りにデニーズで食事をした。
窓の外に走る車を見て、車でしか行けないところが沢山ある、という話をした。
私は、首都高からの眺めが好きなんだけど、いつも思い出すのは、『1984』の非常階段のシーン。

1984年から1Q84へ、
高速道路で渋滞に巻き込まれ、主人公がタクシー運転手の勧めで道路脇の非常階段から脱出し
高校時代の親友を思い出しながら階段を降りていく。タクシーの中で流れていた曲がなぜか知っている曲だが思い出せない。

不思議の国のアリスみたいに。
好奇心に駆り立てられたアリスは、ウサギを追って、ウサギ穴に落ちていく。

以下、引用

“Down, down, down.” では、下へ下へと降りていく(もしくは、落ちていく)アリスの様子が強調されているようである。
つまり、アリスは“down”で、無意識の深層心理へと向かっていき、(中略)
『不思議の国のアリス』では、上下メタファーが現実世界と不思議の国(Wonderland)間のスイッチの役割を果たしている。

引用終わり

熊田 岐子
代表的古典の『不思議の国のアリス』と現代の『ハリー・ポッター』に見る空間メタファーの働き より。

村上春樹作品も、よく「地下二階」という表現をされるけど、現実とちょっと違ったもう一つの世界があるかもしれないというテーマは
哲学的にも興味深い。

また今度、彼と話せたらいいな。

今回もありがとう。

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