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花の器

今日は、暖かい一日だった。
私鉄線路脇の桜の古木が、あと2ヶ月もすると満開になるはずだ。

木箱に入ったまま、祖父の家の棚の奥ににあった器は、
曽祖母が使っていたものたちで、何十年も眠っていた。
桜の花が満開で、春らしい好きな器だ。

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父の話では、厳格なイメージの曽祖母だったが、器は女性的である。
何を盛ったのだろう。

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こちらも花が咲いている。
そして、蝶の花挿しは、古物なのにモダンな感じがする。

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曽祖母は、明治10年代の生まれであったと思う。
老境に差し掛かってからは、新聞を何紙か読むのが日課であったという。
私も、歳を重ねて時間ができたら、そうして各紙を比べて読みたい。
本来なら、海外の新聞も含めて、と言いたいところだが、残念ながら語学力がない。

公園を歩いていたら、ご高齢の方が陽のあたるベンチで新聞を読まれていて、ふと、曽祖母のことを思い出した。

新聞のある風景はいい。
新聞を読む大人の姿を見ると、いいな、と思う。
古い映画の中の「衝撃の事実」は、新聞の見出しのカットである。
トレンチコートにソフト帽のハンフリー・ボガードのような出立ちの紳士が、ぱんっ!と音を立てて開くニューズペーパー。
または、パリのカフェで脚を組んで読むマダム。
スタンドに小銭を置いて、新聞を抜く姿も。

ネットの情報だけではなく、紙で記事を読み比べ、情報を取捨選択をすることの大切さは、今後なくなるのだろうか。
もちろんネット版でもいいのだけれど、読み返したいコメントは紙がいい。
インクの匂いが好きだ。

テレビにしても、新聞にしても、各社の特徴をよく知って、それぞれの
ニュースの捉え方の中から、自分で真実を見極める作業こそが、
『教養』を意味するのではないか。

情報が真実かどうかを見極めるのは、自分の中にアンチテーゼを持っているかどうかだ。
「それって、本当かしら?」
物事には、裏と表がある。
情報をストレートに受け取るだけ、というのはどうなの?
と思うし、逆に嘘だと思うなら、別の情報を徹底的に調べればいい。
私は、日々移り変わるものに、パーフェクトを求めることはしない。

フェイクニュースのようなものに踊らされ、明らかに歴史認識と違うことを信じてしまった友人に、
「それは、どうして?」
と聞いたことがある。
しかし、盲信してしまうと調べることをしない。
目を瞑ってしまうことこそが、怖いことだと思った。

受け取る側が「真実」を追求しない時、利用されてしまうことになる。
流れる情報のうち、何を選び取って行動するのか。
それは、受け手の問題である。

しかし、情報は受けるものではない。
「取りに行く」ものだ。
活用するためのものである。
活用するときに、最も『知性』が求められるのだと思う。

公園のご老人の読まれていた新聞から、曽祖母に想いが行くという、
なんとも穏やかな日だった。
歳を重ねても、自ら情報を取りに行く姿勢を忘れないでいたいものだ。






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