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自由にはみ出して描けるか

少し涙目になってしまった。

幼稚園受験の子のクラスに縁があり、私に自由に表現する絵画の時間が割り当てられた。
自由にクレパスでぐるぐる描いて、その上から絵の具を塗り、それを切ってクリスマスのモミの木を作る課題だった。

大きな画用紙に
「クレパスで自由にぐるぐる描いてね!」
と言ったら、画用紙の端に枠線を描き、その内側をクレパスで塗りはじめた。

枠の通りになぞって塗って、中をはみ出さないように着色する。
それは、幼稚園受験に必要なことなのだそうだ。
だから、何も疑わずに、画用紙いっぱいに枠をとったのだ。


しかし、自由に絵を描いてきた私には衝撃だった。

「なぜ真ん中から描いていいのか、ちゃんと説明してからでないと、この子たちは枠から描いてしまいます。」
そう、聞いた。
そこで、泣きたくなったのだ。
描きたいように描いてはいけないなら、私は、この子たちと一緒に描くことはできないのではないか・・・。


そして、アートセラピーで習った「枠付け法」を思い出していた。
子どもの描いた枠線は黒ではなかったが、この枠の中にぐるぐる線を描きはじめたとしたら・・・。
抑えていた感情が溢れ出てきてしまうのではないか。

画面の端に黒サインペンなどで枠を引くことにより、被検者の内的表現を保護する方法を、絵画療法では使う。
風景構成法の時にも、枠があることで心の中が浮き彫りになる。
内面を保護しながらも、表現することを強いるという、二重の性質が生じるとされている枠付け。


絵は、ただの表現じゃない。

絵は、心そのものが現れる場所。

その日、ある女の子は、自ら枠をとった後、物凄い勢いで殴り書きをした。
その後で、悲しかった出来事を私に語ったのだった。
子どもは、留めている感情を出してしまう方がいい。
そういう意味ではよかったのかも知れないけれど。

そして、それはフィンガーペイントのように、無闇にしてはいけないことのように思えた。
私自身、フィンガーペイントをやった後に具合が悪くなることが実際にあった。
溜めていた何かが、出てしまうのだ。
だから、きちんとそれをケアできる人が行わなければならない。

枠の中に『心』がある。
はみ出してはいけない心。
いい子にしている心。


そして、とても不思議なことに、そのすぐ後に、あるご家庭で絵を教えてもらえないか、という依頼があった。
「幼稚園受験をして、この子は自由に絵を描かなくなったのです。私は絵本が好きで、そういう創造性を、絵の好きなこの子に身につけてほしい。だから、枠をとってから綺麗に塗る描き方ではないものを教えて欲しいのです。
これからは、世界も必要とされる職業も変わります。今までのように、いい学校を出て、いい子ならうまくいく時代ではないと思います。この子に、自分で想像したものを作る力をつけてやりたいのです。」

私は、頷いていた。
人生の節目に、必要なものはある。
その時にできなければいけない巧緻性をみるようなものも。
でも、その後で、狭い世界から心を開放するように、決まりを手放すように、このお母さんは考えられていたのだった。

では、その逆に、自由な表現を先に覚えた子を、後から枠の中を綺麗に塗る子に変えられるのだろうか?
幼児教室の先生は、別物として教えることは可能だとおっしゃった。

私は、自由に描けない絵を強制されたことがないまま育ち、美術大学へ進学した。
ぬりえは枠から塗ることはあっても、常に画用紙の上は自由に転がっていいところであり、遊び場であり、弾けても良いところであり、心を受け止めてくれる場所だった。

心の自由を求めて制作する作家が、苦しいことも知っている。
でも、それは、心が自由な状態を想像できるから。
どこかに自由があると思うから、もがくのだ。

初めから、枠の中に「心」を置いたとしたら、出してあげなければいけない時が来るのではないかと思ったら、急に関わることが怖くなった。

真ん中から絵の具をぶちまけて、がんがん描いて、はみ出していく力が削がれるなどということは、私の生い立ちからは考えられないことだったからだ。
自分の知らないことを始めるには、恐怖を感じることがあるという、そのままだ。

いいとか、悪いとかということではない。
ただ、描かれた枠に、閉じ込められるような息苦しさを感じていた。

絵と「心」は通じている。
いつか、機会を得たら、絵で悪い子をしたっていい。
画用紙は受け止めてくれるだろう。
そんな風に、教えるのはいけないことかな。


















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