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山手線を一周した日から、人生は大きく変わった

割引あり

と、いうと少し大袈裟な気もする。でもあの、通学途中の山手線で降りるはずの池袋で降りずに2回目の池袋まで泣きながら一周した日がなかったら、私はアメリカに行くこともなかったし今海外で過ごしていることもなかったと思うから、決して嘘ではない。

高校2年生の冬まで、日本の大学に進学するものだと思っていた。東進ハイスクールに通って受験の準備をしていたし、アイスホッケーも東京のそれまで所属していたクラブチームで続けるものだと思っていた。日本の大学に進学する以外の選択肢なんて知らなかったから。前例がないということは、知らないということは、存在しない選択肢であることと同様なのだ。

私は高校1年生の時、16歳で始めてU18の日本代表に選ばれてアメリカで行われた世界選手権に出場した。初めての海外での試合、そして初めてのアメリカだった。シカゴで飛行機を乗り継いで到着したバッファロー。2週間強滞在した記憶があるが、緊張している間にあっという間に終わって、でも、また次の年に戻ってきてもっと活躍したいと感じた大会。まだ英語も話せない頃で、一緒にいた英語が話せるチームメイトに、スタバでフラペチーノを頼んでもらった記憶がある。日の丸を見るのも身につけるのも特別で、ちゃんとそこには全身で感じられる緊張感があった。結構前のことなのに、自分がどういうプレーをしたか、試合の場面もちゃんと覚えている。自分の強みも分かったし、大会で自分が覚醒した瞬間も覚えている。結果的に、その時初めて海外で試合をしていたから広がった世界がある。

その次の年、17歳になり、私は再びU18の世界選手権を大きな目標に、毎日それを考えて、生活していた。「懸ける」ってこういうことなんだ、と分かるほど、文字通りそれに懸けていた分、思いも注ぎ込んだ練習も時間も今までのどんなことより大きかった。その時の私は夢をもち、努力して、そこに進んでいけることに大きな価値と充実感と意義を感じていた。今もそうだけど、その時はそれはそれは純粋に。例外などないと、信じきっていた。今考えたらそれは、自分自身へ向けての大きな大きなプレッシャーだったかもしれないし、青いが故の危うさもちゃんと持ち合わせていたのかもしれない。

2度目の世界選手権直前の合宿の後、大会に行くおそらく3週間くらい前に、代表から外れた。その時のことは鮮明に覚えている。12月初めのある日。タイミングというのは本当に奇遇なもので、その前の晩私は、チームで仲良くしてもらっている先輩たち3人を呼んで我が家で夕飯を食べ、そのうち2人の先輩は我が家に泊まって、翌日うちからそのまま高校や大学に行こうとしていた。そんな翌朝、起きたら、チーム全員が見れるグループチャットにU18世界選手権のメンバーが載せてあり、私の名前はそこになかったのだ。私はその日の朝ものすごくパニックだったし、まともに喋ることも思考することも出来なかった。一緒に学校に向かうために3人で家を出たけれど、先輩たちにはものすごく、それはそれはものすごく気まずい思いをさせたと思う。もしかしたらもう何年も前のことだし忘れているかもしれないけど、今もなんとなく恥ずかし気まずくて、その時の話はできないままでいる。

何も考えられないほど、ショックだった。それまでは、そこを通過するのが当たり前で、その先に順風満帆な代表入り、オリンピック、と思い描いていて、その道を順調に歩んでいると信じきっていたのに、こんなスタート地点で、こんなに早々と外れてしまった。アイスホッケーが全てなのに、これがなくなったら自分から何もなくなってしまう、本気でそう思って、本当に途方に暮れた。諦めたくないしこの先の目標、アイスホッケーの夢を叶えたい、でも、このままここで挫折して、今までと同じ場所で同じことをしていても、そこには辿り着かないと、道が途中で崩れて先に行けないような、現実を突きつけられた。その日、先輩たちと別れた後、山手線に乗って本当は池袋で降りなきゃ行けないはずなのに、泣いていたら見事に1周して2度目の池袋にたどり着いた。どうしても気分にはならなかったので、親友に今日学校に行かないことだけ連絡して、そのまま、とにかく気を紛らわそうと、池袋をうろうろしていたのを覚えている。

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