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他者に見放されるのと、自分で諦めるのと

どちらが怖いのだろう?ちょっと想像してみたが、どちらも怖い。

他者に見放されたことを突きつけられるのも恐怖だし、知らないまま見放されていたことをあとから知るのも恐怖。理由や背景を冷静に聞ける状態なら怖いと思わないかもしれないが、心が落ちたときに解釈が変わりそう。

自分自身のケイパビリティとキャパシティの限界を知ることは大事だけれど、「諦め」として受け入れるのは、これまで突き進んできた歩みを止めてしまうようで、これまた怖い。立ち止まるのはなんら悪いことではないが、その瞬間に拠り所となっていたものまで消えてしまいそうで、それが怖い。

相手はそこまで思っていない、自分の認知次第だ、と言い聞かせながらも不安感に駆られているのは、週初めはパフォーマンスが振るわないくせに重たい会議をファシリしなければならなかった(そしてそれがイケてなかった)のと、明らかにキャパオーバーなのに頭を抱えるほど面倒なタスクに追われ、心が落ち着いていないせいだ。


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