見出し画像

本の正体

私が通っていた大学は
アメリカの、ある州立大学の日本校で
教授達も本校から来ていたし、
カリキュラムや授業内容も、
基本的にアメリカのものと同じだった。(はず)

その大学で当時、たしか必修科目の一つとなっていた
American Literature (アメリカ文学) の授業で最初に読まされたのは、

意外なことに
古代ギリシャの作品だった。

『エディプス(オイディプス)王』
『アンティゴネ』
『饗宴』
『ソクラテスの弁明』など。

その時は
えー、アメリカではギリシャ古典を、アメリカ文学(の原始とか範囲内)と考えてるんだー
と思った。

ピューリタンたちが、Pilgrim Fathersピルグリムファーザーズとして何処から来たかを考えれば、まぁ確かにルーツはヨーロッパだよね、とは思うんだけど

アメリカ合衆国って、
そのヨーロッパの伝統文化と訣別けつべつして、
〈新大陸〉で
(既に住んでいた人々を追い出すように迫害しながら)
自ら新しい文化と歴史を築くために海を渡って来た人達がつくり上げた国
だと思っていたので、

「彼らの自国の歴史認識って、建国してからじゃないんだ」
と、ちょっと不思議に感じた。
(ちなみにアメリカ建国:1776年)

それとももしかしたら、
アメリカ人たちの中でも、大学とか教授によって解釈が違うのかな?

小さい時から本を読むのが大好きだった私は、
ギリシャ・ローマ神話なんかは、アフロディーテやアルテミス、ディオニソス、ポセイドンなど、ロマンあふれる異郷の響きに憧れて、
(ギリシャ風の呼び方のほうが好き❤︎)
神々の名前とエピソードをほとんど覚えているくらいよく知っていたけれど、
それ等の古代ギリシャの古典はまだ、読んだことがなかった。

アメリカの大学だから当然、教科書も資料も、普通に英語で書かれたものしか使われない。

あ、そうだ。

ついでに、よく友達たちから質問されてたんだけど、
その大学では、英語「を」習ったわけじゃないんです。
文学や宗教学、人類学、社会学、地学、政治史、近代史、統計学…
そういった科目を、英語「で」習っていました。

学校には本校から来た生徒や、日本に住むnon-Japaneseの学生たちも少しは居たけど、
殆どは日本人、それも帰国子女の学生が多かった。

彼らは聞く事と話す事には、さほど苦労はしていないように見えたけど、
帰国子女でも英語圏ハーフでもない私は
(DNAとしてはウチナンチュとヤマトンチュのハーフで、それは秘かに誇りとしていますケド☺️)
全て英語で行われる授業は
基本的にワケワカメで、
必死に聞いても、半分もよく解らない。

一生懸命ノートを取って、
家で教科書と照らし合わせて復習して、
やっと何とかついて行ける感じだった。
(予習も大変だったのよー、各教科、毎回30ページくらい読まなくちゃで…)

どの教科の本も
さらな何も解らない状態から、
英語で内容を一から読んで理解するのは、
いつも本当に頭も体力も消耗する作業…

でも文学に限っては、
岩波文庫さんという強い味方がいるので!
これ幸い♪と、
「頼りになります、有難うございますっ」
とばかりに、本屋に買いに走ったのでした。

その、日本語に翻訳されたヨーロッパの古典の本を読んでいるうちに思ったのは

翻訳してくれた先人への感謝と尊敬以外に

古代ギリシャという
実際には、いったいどれほど時間がへだたっているのかも判らないくらい昔の、
はるか遠くの国に生きていた
この本に描かれている人たちが、

そのとき語っていた言葉や、
考え、主張、
そして 感情…

その日彼らが生きた時間を、
彼らの生命いのちの活動を、

時代も国も、人種さえも違う私がいま
あらゆる意味で遠く離れた
この場所で

追体験をするように
その時の記録を読みながら

心が
その日の彼らに寄り添っていることに
不思議を感じた。

更に思った。

もし会話以外の、
個人の
誰にも話すことのない秘めた想いが文字に記録されて (=その人が書き残して)
それがたまたま、後世に残ったなら

そして
何世紀も後に生まれた人間が、
そこに書かれた、その想いに
共感したとしたら

人知れず想いを書き残したその人の心に
いちばん近くまで近づいて、
いちばん理解してあげたのは、
当時その人が一緒に住んでいた家族や、
日々、顔を見て話をしていた友人たちより

お互い会ったことも無く
存在すら知らなかった、

はるか時空を超え
残された言葉だけでたまたま繋がり、
響き合った、

いまそのきろくを読んでいる人の方だということになる…

本って凄いな、と思った。

「想い」もそうだけど、
例えば一人の人間が一生をかけて研究した膨大な学究の成果が、
もし一冊の本に凝縮されているとしたら

一人の人間の「頭脳と知性が長い時間を費やしてやっと得たもの」
の全てが、

まるでSFのようにぎゅうっと一点に集約して行き
本というカタチになって、
今現在
他人である私の手の中に収まっている…
ってことだ。

時空は物理の次元に属すものだと思うけど、
その物理的な時空を苦もなく乗り超えて
他の時代の事象にも寄り添える、
人間の気持ちや 心というものは、
実際、どんなことわりの現象で、
どんな次元に属するものなんだろう。

そして
そんな現象を人の心に起こさせる
言葉の記録、書籍、書物…
それが巻物のかたちでも、
あるいは 遺跡に刻まれた文章であっても
同じ事を起こさせる、この存在って…

それを言うなら漫画や映画だってそうだよ
と言う人もいるかな。

うん、そう思うでしょ?

ところがね、

絵が付いてくると、その画像イメージに引っ張られて、
あなた自身の想像力が、
自由に広がっていくことが出来ないの。

たとえば『世界一の美女』という記述があった時に
写真や絵が既にもう、そこにあるのと、
その言葉だけしか書かれていない場合では、
あなたの想像力はどちらがより強く働く?

想像力は、その豊かさがやがて創造力にもつながっていく。
想像力は、より多く、より細やかに働くほどに
人の内側において優しさや思いやりを深くはぐくむ、肥沃ひよく土壌どじょうにもなる。

もちろん漫画本でもそれらは育つし、
私は
日本人に、人に寄り添える同情心を持つ人が多いのは、
子供の頃からさまざまなマンガを読んで育って、
いろんな境遇や想いを持っている人たちがいることを自然に学んでいる事も大きいのではないか
と思っていて、
(楽しみながら出来る自然な情操教育♪)
だから
他の国の人たちも同じようになったら
世界はもっと良い場所になるかも、という希望も込めて
マンガが世界中に広がっていくのは大賛成なんだけど

漫画のように固定された視覚イメージに囚われない想像力の方が、
その何倍も、
もっと美しく素晴らしいイメージを(心の目で)見せてくれるし、
もっと心の奥深くまで、感動を味合わせてくれるに違いないという確信がある。

ひとつの言葉からどんな想像が生まれて来るかで、自分自身について深く知ることも出来たりするしね。

そこで改めて考える
「本」というものの正体って…

とりあえず私はこう感じてる。

本って、ものすごい「四次元装置」。

ページの中に含まれているモノの、
量や性質が測り知れない。
怖いほどに。

ページを開いて読み始めたら、
自分がどんなことを知るか、
どんな世界を見るのか、わからない。

読み終わった後の自分は、
以前と同じ自分じゃないかも知れない。

本は、時空を超えて情報を伝えることが出来る。

過去に書かれていても現代でも、
たとえ著者が無名の一個人であっても、

読んだ者に影響を与え
行動や精神まで変化させる力を持つ。

時には人が産み出した、
(小説などの)創作上の人物の気持ちにさえ心を近づかせ、

想像の世界が
現実の人間の心に直接、
化学反応を起こさせたりもする。

そう考えたら四次元どころか、
五次元か、
六次元装置かも…

読書体験は異次元体験みたいなもの。
未知のなにかを知ると共に
自分の想像力が力強く羽ばたける時間。

本が人間にとって本質的にどんなものなのかを思う時、

「考えてみると、すごいものだな」
って思わない?


私だけかな。



書いたものに対するみなさまからの評価として、謹んで拝受致します。 わりと真面目に日々の食事とワイン代・・・ 美味しいワイン、どうもありがとうございます♡