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私の大切なおばあちゃん


 私は、おばあちゃんっ子だった。
 
私の大好きな、自慢のおばあちゃんは、
明治時代の石垣島生まれ。
 
娘の誕生が続いていた家庭に、何番目かの女の子として生まれて、
おばあちゃんの後に更にもうひとり、妹が生まれて、
末っ子に、たくさんのお姉さんたちをもつ長男が誕生したという、大家族だったそうだ。
 
うちのおばあちゃんがすごかったのは、
そんなにたくさんのきょうだい達の中でも
特に頭がよくて、勉強もよく出来たから
学校の先生に、
飛び級で師範学校へと推薦された、ということ。
 
でも、おばあちゃんのお父さんは
明治生まれの男性で、しかも辺境の片田舎の生活で
仕方なかったのかもしれないけど
「女に学問は必要ない」
と言ったそうで
お金持ちの家ではなかったし、弟もいるからと、おばあちゃん自身は進学することを諦めていたそうだ。
 
でも
 
ある月の明るい夜、おばあちゃんのお母さんが
「舟を頼んでおいたから」
と言って、おばあちゃんに荷物を持たせ、家からこっそりと逃がしてくれたのだという。
師範学校に進学させてあげるために。
 
おばあちゃんはそうして、家出するように生まれ育った島を離れ、師範学校(たぶん沖縄本島の)に入学すると、一生懸命勉強し、卒業後は小学校の先生になって働いた。
 
何年かして、石垣島の両親から「おまえの結婚相手を決めたから帰ってきなさい」という連絡がきて、おばあちゃんはその頃、ほのかな恋心を抱いていた同僚の男の先生がいたそうなんだけど、時代が時代だし、そのまま想いは胸に秘めて、親に言われた通りに仕事を辞して故郷へと戻り、言われた通りに結婚した。
 
親が決めた相手であるおじいちゃんは、同じ八重山やえやま出身の、小学校の校長先生をしている人だった。
(おばあちゃんは昔話をするとき、いつも「八重山やえやま」と言っていた。石垣とか、島名をいうことは殆どなかった)

結婚後、おじいちゃんとおばあちゃんは、日本政府から南洋へと派遣され、テニアン島、パラオ島、台湾など、赴任地を移動しながら、
子供も次々と生まれ、家族を増やしながら、
各地の小学校でそれぞれ校長、教師として働き、その地で暮らす子供たちに勉強を教え続けた。
 
戦前からずっと「南洋」に赴任していたので、戦争が始まると当然、生活が戦場に投げ込まれるかたちになった。
生命を失いかける危険も何度もありながら、おばあちゃんたちは戦火をなんとか生き延び、終戦を台湾で迎え、引き揚げ船で日本へ戻ると、そのまま東京に居を定めて、石垣島には戻らなかった。
戻れなかった。
 
おじいちゃんは戦後まもなく、心労からか病を得、せっかく生きて戻れたのに、闘病虚しく、帰らぬ人となった。
 
おばあちゃんの家族は、ほぼ全員、無事に日本に戻ることが出来たけど
おじいちゃんの他にも、
やはり戦後、結核を患い、17歳で亡くなってしまった娘ひとり(私にとっては、会う事の出来なかった伯母)と、
戦争中、物資がなくて薬を与えてあげられず、守ってあげることが出来なかった小さな命、まだ小さな赤ちゃんだった双子の、男の子を失っていた。
 
おばあちゃんは子供たち全員が成人し、それぞれ結婚して家を離れ、独りになったあとは、民生員として働き続けた。
 
お正月は毎年持ち回りで親戚の誰かの家に集まり、
お盆、お彼岸、法事はおばあちゃんの家に皆が集まり、
おじいちゃんが亡くなったあとも、おばあちゃんは家族の中心としてみんなに目を配ったり、相談を受けたりしていたけれど、
 
やがて、そろそろ誰かと一緒に住んだほうが良いのではないかということになり、おばあちゃんに誰の家に行きたいかと希望を聞くと、おばあちゃんは
「るりちゃんと住みたい」
と言ってくれたのだという。
 
それで、まだ間借りの部屋に住んでいたうちの両親が私を連れ、都心にあった実家へと引っ越し、おばあちゃんと一緒に住むことになった。
 
孫はたくさんいるのに、なぜ私と住みたいと言ってくれたのか、もし生前にこの話を聞いていたら、おばあちゃんに直接聞いてみたと思うけど、私がそれを知ったのは、おばあちゃんが亡くなった後だった。

でも私はなんとなく、
その頃2歳くらいの私が、生まれてからずっと入退院をくりかえす子供だったから、もしかしたらこの子は大きくなれずに天に召されてしまう子なのかもしれない、とおばあちゃんは考えたのかな、と思っている。
だからきっと、それまで少しでもたくさんの時間を一緒に過ごそうとしてくれたんだろうなって、感謝している。
 
おばあちゃんは私に、いろんなことを教えてくれた。
小豆あずきやお米を入れたお手玉を作ってくれて、空中にリズムよく両手でまわしていくこと。
おかげで私は、まだ小さい手でも、三つまで上手にまわせるようになった。
 
絵本をたくさん読んでくれて、夜寝る時にも、お話もたくさんしてくれた。
眠れ良い子よ・・・ と静かなメロディで始まる、シューベルトの子守歌と呼んでいたきれいな歌も、お腹にやさしく、ぽん、ぽん、と手を落としながら、よくうたってくれた。

おばあちゃんと一緒に絵本をよく見ていたからか、私は特に習うということもなく、小さい時から一人で本が読めるようになっていて、4歳のときの入院時、母が『おばけちゃん』という本を置いて行ってくれて、私は明るく楽しい絵が気に入って、繰り返し読んだことを憶えている。
「こんにちは、ぼく、おばけちゃんです。ねこによろしく。」という挨拶と、ひとくちごとに味の変わるジュースを、私も飲みたいな、と思ったことも。
 
早春賦そうしゅんふ』の歌も、たぶん3歳頃、おばあちゃんに習った。はるーは、なーのみーのー、という歌詞の意味は全く解っていなかったけど、メロディと言葉は、間違えることなく、おばあちゃんとぴったり一緒に歌えるようになっていた。
この歌を聴くと今でも、二人で向かい合って一緒に歌っているときの、おばあちゃんの笑顔を思い出す。
 
うちではそれが普通のことだったのだけれど
考えてみれば、ずいぶん特殊だったなと思うのは、
うちでは
お腹が痛くなったり、どこか具合が悪いとき、それを親に告げると
「おばあちゃんに霊気れいきあててもらいなさい」
というのが日常だったこと。
 
「おばあちゃん、霊気あてて」と頼みにいくと、
おばあちゃんは座布団を並べて「そこに寝なさい」と言って、
自分は正座したまま、
具合の悪いところに、厚ぼったくてやわらかい、子供の目には大きな手を置いて、静かに目を閉じて、しばらくじっと、あたたかい手を載せてくれていた。
 
高校生くらいになってようやく、それは一般的ではなかったということに気づいて、
え、もしかしておばあちゃんって、超能力者なの?(笑)
などと疑問がわき、聞いてみると、
霊気はね、習ったのよ、練習したの。それで使えるようになったのよ、と教えてくれた。
大人になってから習ったというので、私も大人になったら教えてね、と約束したけど、たぶん私の方がその約束を忘れていて、けっきょくは習わず仕舞いになってしまった…
 
おばあちゃんは仏様をとても大切にしていて、
毎朝、起きて身支度を整えると、先ずお仏壇のお花やお水を換えたり、拭いてきれいにして、最後にお線香をあげてお参りしてからでないと、自分の朝食を摂らなかった。

お盆やお彼岸の時にはいつも、夕方、玄関先で割りばしを燃やしての迎え火や、茄子やキュウリに楊枝を刺して動物のお飾りを用意するのを教えてくれながら、私も一緒に作ったり、お手伝いをしていた。
その時は
「ほとけさまがいらっしゃるのよ、ご先祖の霊がみんな帰っていらっしゃるから、たくさんご馳走を作ってみんなでお迎えするのよ」
と教えてくれた。
 
仏様を大切にしていたおばあちゃんだったけど、でもなぜか、イエス様のお話や、讃美歌のこともよく知っていた。私は聴いたことはなかったけど、親戚のおばさんたちの話によると、おばあちゃんはピアノやオルガン、ヴァイオリンも、上手に弾けるということだった。
 
おばあちゃんの本棚には、大きなハードカバーの、新聞の通信販売(?)で揃えたという、西洋美術や東洋美術の何冊もの画集と、外国文学、日本文学の、有名な絵画の写真が挿絵として入った、とてもきれいな本も何冊もあって、私は幼い頃からそれらをよく、何時間も飽かず眺めて時間を過ごし、美術や文学、本の与えてくれる喜びに育まれて育った。
 
おばあちゃんの教えてくれたことで、
大切なことだったな と今でも思うのは、
私が小学生のとき
「もし誰かいじめられている子がいたら、その子をかばってあげなさい」
と教えてくれていたこと。
 
時代が違うという人もいるだろうけど、
私はそう教えられていたから、出来る限りそうしていたし、
そのために今度は自分が何か悪口(バカとか)を言われても、ちゃんと「ちがうもん」と言い返せていた。
おばあちゃんがそうしなさいって教えてくれたんだもん、間違ったことなんかしてない。
たぶんそれは、おばあちゃんへの信頼から来る自信があったからこそ、ひるまずにいられたんだと思う。
 
おばあちゃんの米寿べいじゅのお祝いには、石垣島からも三線さんしんを抱えて親戚が駆けつけて、みんなで盛大にお祝いをした。
でもそのすぐ後におばあちゃんは体調を崩して、入院することになって・・・ 
そのまま、もう家には戻ることが出来ないまま、亡くなってしまった。
 
おばあちゃんが亡くなる前の日、私は、おばあちゃんが病院から私に電話をかけてくる夢を見た。
その夢の中で、「おばあちゃん、よかったねぇ、また元気になれたんだね。退院も、きっとすぐだね」
そう言って二人とも笑顔で会話する夢を見たので、目が覚めたその朝、平日だったけれど、私は会社のあとにおばあちゃんに会いに行こうと決めて、入院する病院まで、お見舞いに行った。
 
こんなすてきな夢を見たんだよ、だからおばあちゃんの退院ももうすぐだよ。
そう伝えて、元気づけたいと思ったから。
 
その日のおばあちゃんはもう力があまりなく、目を閉じたままだったけれど、耳元で、大きめの声で話すと、表情がにっこりと笑顔になってくれた。
おばあちゃんを笑わそうと、私たちにしかわからない冗談を言うと、本当に可笑おかしそうに、きゅっと目じりに笑い皺と、口元からは笑みがこぼれて、つないでいた手をぎゅっと力強く引っ張られ、おばあちゃんの顔の上に、私の顔が来ると、かすれた、とても小さな声で、でもはっきりと
「るりちゃん、だいすき」と言ってくれた。
 
その翌朝の早朝、おばあちゃんは静かに、たった一人で、旅立って行ってしまった。
 
私にも連絡が来て、私は図らずも二日連続で、その病院に行くことになった。
病院前の信号を待っている時、
ほんの24時間前までの、
まだおばあちゃんが生きてこの世にいてくれた世界と、
今の、おばあちゃんがもういない世界は、
まったく、全然、違うもののはずなのに、どうしてまるで同じように見えるのか、どうしてもせなくて、ただ不思議な気分を噛み締めていた。
 
テニアン島生まれの伯母の一人が、
物心ついた頃の幼少期の、南洋での思い出を文章に書いている。
その中で私がいちばん心を打たれた、おばあちゃんのエピソードがある。
他にも私が子供の頃、おばあちゃんが話してくれた、戦争中の不思議な話や、
伯母が話してくれた、私が知らなかった、おばあちゃんのこと。
 
次回、あともう一度ほど、私の大好きなおばあちゃんについて、
それらのエピソードをお話しさせてください。
 
思いがけず長くなってしまったけど、
ここまで読んでくださって、どうもありがとうございます。
 
8月は、家に戻ってくる精霊のみなさまたちとの語らいの月だから、
こんな思い出話も許されますよね?
 
 
 

書いたものに対するみなさまからの評価として、謹んで拝受致します。 わりと真面目に日々の食事とワイン代・・・ 美味しいワイン、どうもありがとうございます♡