「食べる」というくりかえしを、どんなうつわでよそおうか。


「ライフスタイルショップ」というお店のジャンルがある。最近は専門店のほうが人気がでてきたからか、あんまり特集を組まれたりすることもなくなった。ぱっと思い浮かぶようなところだと、CIBONETHE CONRAN SHOPIDEEなんかだろうか。

そういったお店に行くと、インテリアはもちろん、カトラリーやうつわがかならずある。どこどこの作家がてづくりしたものだとか、海外のデザイナーがデザインしました、というようなものだ。

今までは「食器なんて消耗品だから、シンプルなもので十分でしょう」と思っていたし、たいそうな雰囲気のあるものをおそるおそるあつかうことの魅力があんまりわからなかった。


ふと、思いたってある作家のつくったうつわを手に取ってみることがあった。灰色と黒、まだらに茶色がまざった、陶でつくられたお猪口である。てづくりされたものらしいぼこぼことした表面を手でつつんでみると、そのままくっついてしまいそうなくらうによくなじむ。飲みくちはやや厚めにつくられていて、口をつけてみると、やさしくひんやりとした指でなでられているような気がした。

1日に数回はある「食べる」という行為を、好きな作家のつくったうつわによそって食べること。それもできれば、自分でつくった料理がいい。そんな「くりかえす行為」にこだわることは、心地よく暮らすうえで実はすごく大事なことだったのかもしれないと、それからというもの、考えるようになってきた。


ご飯をよそうの「よそう」は、「装う」が語源だという。くりかえす行為を、どんな道具で装うのか。そう考えると、とたんにおおごとに思えてくる。そもそも、うつわにこだわる生き物というのは人間しかいないうえ、大昔からこだわられてきたことを思うと、いよいよ間にあわせではすませらないぞという気がしてきた。


ひとつのことにこだわるのは、かぎりなく「祈ること」に近いような気がする。そして、人はなぜ祈るのかというのは、そこに精神的な豊かさをみいだしているからだ。きっと、祈りの数...つまりこだわりたいことが多いほど、人は豊かさを感じられるんじゃないだろうかと思う。

そして、祈りの回数が多い行為、ここでは「食べる」こと。そういうところから、本当はまずこだわっていくべきだったのかもしれない。

暮らしを提案するお店にかならずうつわがおかれている理由が、わかったような気がした。


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