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【短編】苦いままでいい。-前編-【『ミルクは先か後か入れないか。』CP話】

 鼻腔をくすぐる香ばしい香り。キリっとした大人っぽい黒に程近い茶色。小さめのカップでもしっかりと存在感を放ってくるそれをゆっくりと舌で感じる。

「……うえっ」

 今までの雰囲気を台無しにするには十分な音が口から漏れる。

「こら、女の子がそんな声出さないの。あと舌引っ込める」

 目の前で呆れ顔をする彼女に差し出された角砂糖を頬張り、秒殺された舌のHPを回復させる。

「やっぱり、無理なのかなあ。珈琲なんて」
「そんなことないって。慣れだよ慣れ。ビールと一緒」
「私、ビールも苦くて飲めないもん」

 もう一つ角砂糖に手を出すと、彼女にしっぺされ追い返された。
 大人の女性。
 何の変哲もない外のベンチで、ブラック珈琲の缶を片手に読書を楽しむ。そんな姿に憧れて、紅茶しか飲めない自分を変えようと、珈琲好きの彼女に「珈琲をブラックで飲める計画」に付き合わせている。

「別に、珈琲なんて飲めなくてもいいと思うけどね。結構いるでしょ。珈琲飲めない女なんて」
「でも、私は飲めるようになりたいの」

 意気込んでもう一度、カップに口を付ける。

「うえぇ……」
「飲めない奴が、いきなりブラックを挑戦する時点で、馬鹿なの」

 再び彼女が角砂糖を差し出す。
 それもそうだ。そもそも慌て過ぎなのだ、と直ぐにでも分かるようなことに、今になって気付く。
 でも、珈琲というものに、今まで触れてこなかった私には、最初に何から始めたらいいのか分からない。

「とりあえず、市販のカフェオレから始めて見たら? 甘いのも多いし」

 私は彼女を睨み付ける。私は知っている。珈琲好きの彼女の言う甘いは、私にとってのこの世の終わりくらいの苦さだということを。
 私だって、人の手を借りる前に試した。市販の甘そうなカフェオレは全て試したつもりだ。試して、全ての商品、全部飲めた例がない。三口飲めたら、自分を褒めてやりたいくらい。

「……それにしても、分からないんだよね。何で急に、珈琲を飲めるようになりたいなんて思うのさ。今まであんなにあたしが勧めても、拒みまくってたくせに」

 彼女が頭を掻きながら私の目を覗く。

「それは……大人の女性になりたくて」
「大人の女性は、珈琲が飲めなくても紅茶さえ飲めれば十分大人とか、この前言ってたじゃん」

 タイムスリップして、昔の自分を殴ってやりたい。

「それは……」

 彼女から視線を外す。途端に彼女が何か閃いたように、目を細め、口の端を吊り上げた。

「あぁ、はいはい。そういうことね」

 彼女が何かスイッチを押したのか、彼女の言葉を合図に、一気に耳が熱くなるのを感じた。私をからかうように、彼女は胸の前で両手を使ってハートを作る。

「ちょっと、からかわないでよ」
「やっだあ、否定もしないんだから、可愛いの」

 頬が熱くて仕方がない。

「なになに。その人は、珈琲を飲む人なんだ。しかも、ブラックで」

 からかわれているのが悔しくて、頷くことも出来ずに、唇を噛む。
 初めは、ただ偶然、同じ大学内の自動販売機を使ったことだ。私が紅茶を買う中で、彼は迷うことなく、いつものルーティーンの中に組み込まれているかのように、ブラック珈琲の缶を買った。
 特に特別な動きをしたわけでもないのに、その姿がやけにかっこよく思えて、わけもなくその姿を追っていた。無意識に追っていたことに気付いたのは、彼と偶々目が合って、内心、慌てていると、彼が優しく笑いかけたときだった。人間、こんな簡単にときめくものなのだと、どこかで自分を客観視する私が興味深げに溜息をついた。

 人というのは不思議なもので、一度意識した人間を、認識する前のことが嘘だったかのように、何気ない風景の中でも見つけることができる。
 食堂でも、図書館でも、木の下のベンチでも、彼はいつものボトル缶のブラック珈琲を片手に何かをしている。難しい顔をして、ノートパソコンの液晶画面と向き合っていたり、本を読んで、遠慮がちに口許を緩ませていたり、友人の話を気怠げに聞いていたり。
 そんなに見てはいけないと脳が注意しても、私の目はそんなことお構いなしに、気が済むまで彼の姿をその奥に焼き付けようとするのだ。

 彼に近づいて、「何を読んでいるんですか?」なんて言えたらいいのに。そんな勇気は私にはない。彼が何年生で、どこの学部に所属していて、何を学んでいるのかも知らない。ただ、同じ大学に通っている本と珈琲が好きな男子大学生という情報しか私は持っていない。
 もっと知りたい。そう思いながらも、前に進めずに、彼から少し離れた場所から眺めたり、同じ空間で本を読んだりすることしかできない。

 考え始めたらもやもやして仕方がない。集中できなくなって放置されたノートパソコンを閉じ、バッグの中に突っ込む。席を立って向かう先は、存在を知って以来、通い続けている喫茶店だ。
 珈琲に力を入れている喫茶店が多い中、その喫茶店は、紅茶に特化していて、紅茶専門店でなければ、なかなか見ることのできないフレーバーを多く取り揃えている。水や砂糖、牛乳やレモンはマスターこだわりで、紅茶の魅力を思う存分味わえる。何より、ティーセットが可愛く、マスターも気さくな女性で、毎日行っても飽きない、逆に毎日行きたいと思わせてくれるそんな店だ。大学と住んでいるアパートの中間付近にあり、大学帰りに寄るのが、日課となっている。
 カランと可愛らしいベルを鳴らせば、マスターが私に気付く。

「いらっしゃい。待ってたわよ」

 子供のように無邪気に笑うマスターの顔に、自然とこちらの口許も緩む。茶葉の匂いが鼻腔をくすぐり、思わず溜息が漏れる。
 いつもと同じカウンター席に座り、ポーチの中に忍ばせていたバックハンガーをテーブルに掛けてバッグを吊るす。
 カウンター越しの棚に敷き詰められた紅茶缶と色とりどりの可愛らしいティーセットに自然と目を輝かせてしまう。

「今日はどうする? あ、美味しいレディ・グレイ取り寄せたけど」
「あ! それでお願いします」
「好きだもんね、レディ・グレイ」

 食器棚から並んだティーセットを迷うことなく、一つ取り出す。私の大好きなティーセットだ。マスターはそれを覚えてくれている。
 ティーポットにスプーンが当たる音、やかんの中でお湯が沸騰する音、お茶が差し出されるまでの全ての音が心地よい。耳が幸せに包まれて、胸に溜まっていた靄がゆっくりと消えていくようだ。

 不意に、メニューの書かれた小さな黒板が目に入る。マスターの手書きで「手作りフィナンシェ」と書かれている。気付いたときには、マスターに頼んでしまっていた。マスターの手作りだ。美味しくないわけがない。この店は、多くの国内外のお菓子を取り扱っている。そのお菓子も魅力的だが、それに負けないくらいマスターの作るお菓子は美味しい。
 マスターは顔を火照らせた私を見て、嬉しそうに笑った。

 待っている間に、本を読もう。お気に入りの栞を外す。大好きな作家の繊細な恋物語。奥手な主人公が自分の想い人に対して一歩踏み出そうとするが、なかなか踏み出せず、ただ遠くから想い人を見つめては一喜一憂する様を丁寧に描いた文字一つ一つが、私の胸を締め付けるのだ。

「……恋って難しいですね」

 紅茶とフィナンシェを差し出すマスターに、本から目を離さないままぽそりと呟く。
手を伸ばしたいと思っても、伸ばせないもどかしさとそのままでいいと思える幸せ。このままじゃ駄目って思うのとこのままでいいと思う矛盾。
頭を撫でるように、主人公を俯かせた文字の羅列をつつっと指でなぞる。

「何々、恋してるの?」

 マスターがニヤニヤし始めた。マスターに隠す気はない。でも、堂々と答えることはしない。私は、マスターに一瞬だけ目をやり、レディ・グレイをゆっくりと喉の奥へと伝わせる。華やかな香りが体内で広がって、脳を侵す。華やかな香りに包まれた空間に、そっとフィナンシェを送る。絶妙なアーモンドプードルの甘さが舌と鼻腔に貼りつく。表情筋を緩ませずにはいられなかった。

「……美味しいです」
「それ以上の感想を顔で見せてくれてありがとう」

 満足げにマスターは私にウインクをする。そして、もう一度、カップに口を付ける私の前に、瓶入りのソフトジャムクッキーを差し出した。

「色恋沙汰に飢えた枯れ枯れのおばさんにちょっと付き合ってよ」
「現代のアフロディーテの間違いじゃ?」
「あら、嬉しいこと言ってくれるじゃない?」

 マスターが瓶の蓋を開けると、優しくて甘酸っぱい香りが溢れ出した。

「で、彼はどんな人なの?」

 口の中に一つ、クッキーを放り込みながら、キラキラした目で私を見る。

「よく分からないけど、珈琲と本が好きな人、ですかね」
「へえ、珈琲が好きなんだ」
「いっつも珈琲を飲んでるんです。しかも、ブラックで。大人ですよね」
「大人っぽいかあ。ここで紅茶を楽しむ貴女も随分大人に見えるけど」
「そんなことないですよ。まだまだ子供で。……マスターは珈琲飲めますか?」
「通ってこともないけど、好きだよ。紅茶には負けるけどね」
「そうですか。いいなぁ」

 一瞬、目を見開いてから、マスターは口の右端を吊り上げて白い歯を覗かせる。

「ふぅん? 最近、珈琲飲めるように頑張ってるんだ」

 私は、頬の熱を紛らわすために、フィナンシェを一気に頬張る。「可愛いんだから」とマスターは無邪気に笑った。

「でも、全然飲めなくて」
「飲めるようになる必要な全然ないと思うんだけどねえ。でも、人って、好きな人に合わせようとしちゃうのよね、今の貴女みたいに。……そういえば、最近よく来るお客さんにも、紅茶嫌いなのに、わざわざここで紅茶を飲みに来る人がいるのよ」
「紅茶嫌いなのに?」
「変わりもんでしょ? 嫌いなら、大好きな珈琲が美味しく飲める店に行った方が何倍もいいのにさ。……でも、そいつも結局は自分の視線の先にある人に手を伸ばそうと必死なのよ」
「なんだか、親近感湧いちゃうな」

 ティーポットに入った残りを全てティーカップに注ぐ。

「タイミングが合えば、今度話せるかもしれないね」

 なんとなく、話してみたいと思った。その人も私と同じ気持ちなのだろうか。素直に飲めないって言えたらいいのに、臆病者はそれが言えない。言えないから、必死にまだ上っていない台に足を踏み入れようと必死になってしまう。その人も今、臆病者を補うために、必死なのだろうか。
 気付けば、瓶の中身は空っぽになっていて、瓶の代わりに私のお腹には満腹感があった。

「ご馳走さまでした」

 銀のトレーをカランと心地よく鳴らした。

「お話付き合ってくれてありがとうね」
「いえ、こちらこそ。では」

 カランとドアのベルを鳴らす。

「珈琲が飲めない貴女でも、きっと彼にも十分素敵に映ると思うよ」

 振り向く私に、マスターは慣れたようにまたウインクをする。私は、ただ会釈をした。

To be continued...

最後まで読んでいただき、ありがとうございました! 自分の記録やこんなことがあったかもしれない物語をこれからもどんどん紡いでいきます。 サポートも嬉しいですが、アナタの「スキ」が励みになります:)