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【エッセイ】好きとか嫌いとか

昨日、「いちばんすきな花」を観てからずっと、自分の中の「好き嫌い」の価値基準とか、男女の友情は成立するのかとか、そういうものに思考の一部を喰われていた。

そんな、一日。

今日も休憩がてらにつらつら書きます。
お時間あるときの暇つぶしに…。

ではいざ。


好き嫌いの線引き

私個人としては、対人面で「好き」と「嫌い」がかなりはっきりしている人間であると自覚している。

教員時代は「嫌い」を作ることを、最大限回避してきた。
いつかも書いた気がするけど、相手が大人だろうが子どもだろうが、そりゃお互いに人間だから馬の合う合わないがある。

それでも「教師」として人と関わる場で、「嫌い」を作ると自分が仕事をしにくくなる。嫌いだからと、避けるわけにはいかない。

どんな場合であっても、その人との関わりを100%回避できないのであれば、「好きになる努力をする」ことを私は望んだ。

どんな人にだって良いところがある。嫌いと切り捨てることはいつでもできるから、原則許容する方向で向き合い続けよう。そういうスタンスで生きることにした。

その限りでないこともそりゃなくは無かったけど、基本的にはそういう判断のもと、仕事をしていた。

そしてそういう癖は、多分今もあまり抜けてはいない。

でも、ほら…もう現時点では、教壇に立っているわけではないのよね。
聖人君子でいるよう努めるよりも、自分の感性を大切にしてもいいかなと思えるようになってきたわけで。

それでいうと、「好き」か「それ以外か」は私の中でかなり大きな線引きなのである。

実際のところ、私の中での判断は本当にはっきり「好き」か「それ以外か」で分類される。

どこかの偉人の言葉で、よく聞くじゃないですか。「好きの反対は無関心」ってやつ。あれは本当にそうだと思う。

「それ以外」にいる人が何をしようと、自分やその周囲へ害が及ばない限りは対岸の火事よろしくスルーできる。

どうかなあ…大怪我をしているとか道端で倒れているとか、のっぴきならない状況に遭遇した場合は、自分に余裕があれば助けるかもしれない。

その程度の心的距離感。

そんな感じだから、そこからさらに「嫌い」にまでいくには、大概のことがないと起こり得ない。「好き」と「それ以外」の隔たりが、人の五倍はあると思う。

「それ以外」の中で、よほど私の中の地雷を踏み抜く、ある意味で選ばれし人が「嫌い」に分類されることになる…。

その感覚が大前提であるので、その「好き」の範疇にいる人間に関して、私の中では年齢も性別もあまり重視されない。


「男女の友情」は成立する?

よって私は、男女の友情について、結論を言うのであれば「成立する」と思う派だ。

いついかなるときも、「男女が二人でいたら、そのまま恋愛に直結して考えられてしまう」という煩わしさが付きまとう──。

「いちばんすきな花」のなかでもそういう点について描かれていて、とても興味深いと思ったし共感した。

私の中の「LOVE」という言葉の示す範囲が、周囲の一般的な価値観と随分ずれているなと感じたのは社会人になる手前くらいだったと思う。

一緒にいて楽しいから、人間として関わるのが面白いから、よく一緒にいる。

それ以上説明のしようがない異性の友人ができたときに、本当にそれ以上説明のしようがなくて困惑した。

好きかどうか聞かれたら、間違いなく「好き」なのだけど、それを何も憚ることなく口にすると、予想だにしない誤解が生まれる。

いや、好きだけどそうじゃなくて、そうじゃないって言うか、いや好きなのは間違いなくて…?!

身体的な特徴としていわゆる「同性」とされる友人といるときには、全く気にすることがなかったイザコザが、頼んでいないのに起こる。

別に誰を傷つけるつもりもないのに、勝手に傷つく人ができてしまう…。何でや…。

いろんな煩わしさに負けた私は、自分や相手の身体的性別が同じでないことを恨みながら、その友情を手放した。

火のないところに煙は立たない。

誤解を招くような行動をとった記憶は皆無だった。それでも、私の価値観を嫌がる価値観を持つ人がいて、その人の主義を優先させたいとあらば、もうそこで選択肢は限られてしまうわけだ。

結局、誰を優先したいかという、周囲の人を天秤にかけるようなことになってしまう。心苦しい…。


LOVEってなんだろね

ここまで考えて、改めて思うのは「私は愛情は理解できるけれど、恋情はイマイチわからんな」と言うことだ。

私の思う「好き」はもう本当に相手の年齢性別、生きる環境何もかも関係ないんだよなあ。全部まるっと、ひとくくりでLOVEなんだよなあ。

これがもうすでに、時と場合によっては摩擦を生むんですよね。

そこに性別の差異というフィルターが挟まると、また一段とややこしくなる。

自分の恋人の周りにいる、異性の友人の存在がかなり煙たいということは、まあ理解できる。

さらにいうのであれば、何をおいても「恋人が嫌がることはしたくない」という考え方は、尊重したいしこれは本当に良くわかる。

…まあ、きょうび、その「煙たい友人」の性別なんてあまり関係ないと思うのだけど、恋人の周りにいる友人が同性だと問題になりにくいというのは事実なんですよね。

同性なら何となく安心してしまう。
それでも、「友達と恋人である自分、どっちが大事なの?!」となることもあるわけですが。

つまるところ「愛」の範疇には個人差がかなりあって、そこに複数人が絡む状態になると、理解するしないで判断がしきれなくなるのだと思う。

自分が大切にしたい人が嫌がることはしない、という選択肢は、もうただただ「愛情の優先順位の問題」だ。友情の入る余地はなくなる。

これまで幾度となく「あなたが男だったらよかったのに」と言われたことがある。
私も感覚としては、多分男で生まれた方がいろいろ上手くいったのだろうなと思うことがあった。

念のために言っておくが、自分のセクシャリティに疑問を抱いたことはない。
ただ、言葉の意味そのままに「生まれた性別が違えば、違う人生が間違いなく拓けただろうな」というだけの話。

世の中には、理解はできるけど、納得はできないことがある。逆も然り。

価値観は、本当に人の数だけある。

感覚が近い人と過ごした方が過ごしやすいのは間違いないし、究極を言うと「どうしようもない」と選択するしかないこともあるのだろう。

「好きなだけ」では一緒にいられない。
これは、友情も恋情も、愛情も多分変わらないのだと思う。

──そんなこんなで、とっ散らかった話になったけれど、へえ、そんな価値観を持つ人間もいるんだなの一例として、この記事を残しておこうと思う!

そして、「いちばんすきな花」の続きを楽しみたい!

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