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【日記】春と追い風

一般的な「朝」よりも、少し遅めに起きる。

誰にも迷惑をかけていない気楽さが、私をのびのびと生かす。

諸々のタスクを済ませて、お昼過ぎに、ふとベランダの方を見る。なかなか風が強そうで、桜の花びらや何かしらの葉などが空を舞っていた。

しばらくそれを見ていたら、気分転換を兼ねて買い物に行きたい気になり、出かけることにする。

自転車を漕いで、よく行くスーパーに向かう。

道中、道や街路に多くの花を見て嬉しくなる。
桜は終わりかと思ったけれど、少し遅れて八重桜が満開だった。

立派な木が多くてウキウキする。

その隣に、ハナミズキが咲いていることにも気づく。白と桃色がある。個人的には、桃色の方が可愛らしくてすき。

ご近所さんが持っている家庭菜園の片隅に、菜の花を見る。植木鉢にはチューリップもある。

道端に、何かしらのマメ科の花が咲いていることにも気づく。よく見る気がする、あの花の名前は何だろう。

そこここに咲く花はどれも目に鮮やかで、それら全てに私は「春」を見る。

…目をこすり、鼻を啜りながら!


スーパーに着き、買い物を済ませて、駐輪場に戻る。

強風のいたずらのせいで、自転車は文字通りドミノ倒しになっていた。

倒れている自転車は、一台や二台ではない。持ち重りのする大きなショッピングバッグを肩にかけたなりで、どうするか束の間迷う。

かなり頑張れば一人で全部起こせるけれど、果たして。

少しだけ心が曇ったけれども、まだ風は強いことを踏まえて、意思を持ち「そのまま」にして、自分の自転車だけを起こす。

手放しに善人なわけじゃない自分を、久しぶりに自覚する。
無駄になりそうなことは、頑張れない。不必要な労力は、割かなくていい。そういう部分が、私にもある。

納得をしてとった行動ながら、少しだけ良心が痛む。なにしろ、私の心根は善良なので…!

慰めるような追い風に、背中を押してもらって帰路に着く。


自宅近くまで戻る頃、ちょうど小学生たちの帰宅時間らしく、街の人が黄色い旗を持って信号に立っていた。

その黄色い旗を持った見知らぬマダムに、「風が強いわねえ」と突然話しかけられる。

「ほんまですねえ」
「見てあのマンションの前。花びらがつむじ風で舞ってすごいことになってる」
「わ、綺麗」
「綺麗だけど、掃除が大変よ」
「あー確かに」

一見すると、知り合いのような会話だが、相互に全く知らない者同士の会話である。

わりと高頻度で、こういうことがある。こういう場面であまり動じることなく、何なら嬉々として応じる「私」が、私はなかなか好きだ。

そのまま、風に飛ばされんように気をつけてくださいねえ!と言って別れる。

強い風になお背を押されながら、袖振り合うも他生の縁…と、心の隅で思う。


夜、のんびりSNSを見ていると、自分の書いた記事に関するリアクションを友人がくれていて、たまらない気持ちになる。

自分が世界に発した言葉に、それを受けた誰かの言葉が返ってくるという喜び。
それはつまりその誰かに、自分の言葉が届いているという喜びだ。

内容ももちろんしっかり読むし嬉しいのだけれど、何よりも「リアクションがあること」自体が、日々真っ白な世界に言葉を紡ぎ続けているような私にとって、真っ直ぐ喜びに直結する。

良いことも悪いことも、全て余すことなく私の血となり肉となる。

そんなわけで、その友人の言葉が嬉しくて嬉しくて、スクショなんぞも撮ってみる。

こういうものは、ふとしたときに見返すと、その度に心の灯りの燃料になり得る。
そのことを、私はこの一年でよく知っている。

たまにLINEで感想や意見をくれる人もいる。

私が発した言葉を受け止め、自分の言葉で反応をするという、その手間をかけてくれることそのものが嬉しい。泣けるほど嬉しい。

そういう言葉を都度、ありがたく抱きしめる。しっかりあたためて、そっとアルバムに収めていく。

noteで言うと、スキのボタン一つも立派なリアクションで、それら全てが私の追い風になる。

そんな思いを噛み締めながら、心の灯りを言葉にしきれない気持ちで眺める。

ああ何だか胸がいっぱい。ありがとうでいっぱい。
良い春の夜だ。

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